「間」こそ命
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は少し「間」の話をさせてください。
いわゆる話の「ま」です。
悪魔の「ま」とも言われます。
ほんのコンマ数秒が命なのです。
その「間」があるかないかで、話がまるっきり違うものになります。
アマチュア落語家としては声を大にして言いたいです。
そんなことがあるはずがないと思う人もいるでしょうね。
しかしこれは厳然たる事実です。
ではどうやって「間」を学ぶのか。
もちろん自分の先輩や師匠と呼ばれる人たちの間を盗む方法もあります。
教えてもらえるような内容ではありませんけどね。
より本質的なことをいえば、容易には学べません。
どんなに盗もうとしても盗み切れないのです。
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結局は自分の持っている「間」を大切に育てていく以外に方法はありません。
極端なことをいえば、誰もが違うのです。
1人として同じということはありえません。
そんなことがあるのかと思う人は、今日から他人の話をじっくりと聞くことをお勧めします。
聞く力は話す力よりも強いのです。
人はよく聞いてくれる人に好感を持つと言われています。
話をしたくてもとにかく聞きましょう。
そしてその人の「間」を体感してください。
面白いくらい、同じ人はいないものです。
話芸の今
話芸といえば、義太夫、講談、浪曲、落語、さらには香具師の啖呵売といったように、さまざまなものがあります。
しかし今日、風俗の変化や価値観の多様化により、それらが生き残るのは並大抵のことではないようです。
少し以前にはテレビでも随分寄席中継がありました。
しかし今では「笑点」を残すのみです。
厳密にいえば、これは寄席ではありません。
話芸の余興である大喜利を拡大したものです。
たまにBS放送で、落語などをやっているのをみると、なんとも長閑な印象を持ちます。
長屋の噺も貧乏の噺も今では、あまりにも遠い物語になってしまったのかもしれません。
「百川」のように地方人を軽く扱った噺は江戸っ子にはうけるでしょう。
また「芝浜」や「子別れ」のような噺、あるいは遊郭を舞台にした作品、若旦那を扱ったものなどは確実に残ると思います。
「明烏」の持つ上品な色気や、「船徳」のとぼけた味はやはり捨てがたいです。
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落語家の中でも特に、立川談志はこの情報化時代にどのように落語が受け入れられるのか、1人で悩み苦しみました。
彼の『現代落語論』を読むと、いかにこの芸を愛していたのかが、よく理解できます。
本当に息苦しいほどです。
面白いと言われる落語ですら、このような状況なのです。
ましてや義理、人情が主体の講談、浪曲となると、なかなか難しいものがあります。
人気のある神田伯山などは、独特のスピード感が受け入れられている少ない例です。
若い人にアピールするのは大変なことなのです。
話芸の未来
こういう言い方は厳しいですが、時代と共に少しずつ衰退を余儀なくされていくでしょう。
生き残れる人は、それほど多くはないと思われます。
新作落語も古典化しない限りは、消えていく運命にあります。
たとえ、女性の講談師が出ても、限界があると思われます。
それはかつての啖呵売の衰退と同様です。
小沢昭一が苦労して集めた多くの話芸のテープを聞いていると、とても懐かしいのです。
バナナのたたき売りや、山伏や行者の恰好をしてものを売る話芸など確かに絶品です。
しかし残念ながら今の時代にはあいません。
原因の一つとして、話芸にじっと耳を傾ける良質の客がいなくなったことも、あげられるかもしれません。
昔は噺の巧拙を瞬時に判断し、どんなに面白くてもニコリともしない常連の客の前で、噺家は鍛えられました。
どの寄席にもこういう「通」と呼ばれる人がいたのです。
彼らは芸にはとても厳しい反面、落語家をあたたかく育て上げました。
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結城昌治の『志ん生一代』を読んでいると、そうした時代のぬくもりを感じます。
酒を飲んで高座にあがり寝込んでしまう噺家を、観客は許しました。
それは彼の芸が一流だった故のことです。
志ん生の噺の間は独特なものです。
興味がある人は、いくつか続けて聞いてみてください。
はじめは何をいっているかわからないかもしれません。
それは志ん生の「間」に慣れていないからです。
明らかに今の時代のテンポよりは遅いです。
しかししばらくして慣れてくると、不思議な懐かしさに捉えられます。
これだけたくさんの噺家がいる中で、なぜ彼の落語が生き残っているのか。
1つの謎ですね。
小林秀雄の語り
文芸評論家小林秀雄をご存知ですか。
今はもう古典の部類に入る人かもしれません。
味わいのある評論をたくさん書きました。
直感的な美意識に支えられているので、難解です。
しかし真っすぐに入っていけば、その表現の持つ詩的な味わいを感じることができます。
彼の講演を録音したCDが今でも売れていると聞きます。
新潮社から発売されています。
聞いてみてください。
その中でも「本居宣長」についての講演は実にいいですね。
不思議なあたたかさを感じるのです。
最初に聞いたのはもうかなり前のことです。
直感的に似ていると思いました。
誰にか。
単に似ているというより、ほとんど同じ間を感じたのです。
古今亭志ん生の話し方と瓜二つでした。
なんとなく見てはいけない秘密を覗き込んだ気がしました。
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宣長に対する敬慕の情が溢れているのです。
「宣長さん」と彼が呼ぶ時の調子が、まるで「ご隠居さん」と話しかけている長屋の連中に似て聞こえました。
学生との対話をしているCDも何枚か出ています。
図書館などで借りられるチャンスがあったら聞いてみてください。
志ん生と小林秀雄の接点を見た思いがしました。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。