【此木戸や・去来抄】言葉ひとつに描写と風情のあはれを探る芭蕉門弟の姿

向井去来

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は俳句の世界について考えてみましょう。

わずか17文字の世界ですが、ひとたびそこにある深みに触れると、想像は宇宙の規模にまで拡大します。

現在でも多くの人が定型詩に神経を降り注ぎ、短歌、俳句は全く力を失うことがありません。

むしろ、自然を見る目が鋭くなり、日常へのまなざしもやわらかくなると言われているのです。

関連の雑誌や、結社も相当な数にのぼります。

俳句といえば、松尾芭蕉の名前がすぐに出てきますね。

このブログにも『奥の細道』に関連した記事がいくつかあります。

高校の教科書には必ず、所収されています。

どれも美しい日本語で、声に出して読んでみると、それだけで大変心地よくなるものばかりです。

リンクしておきますので、暇な時間に覗いてみてください。

今回は彼の門下であった向井去来の著作についてみてみます。

『去来抄』という本をご存知でしょうか。

俳諧の心構え等をまとめた書物としてよく知られています。

1702年頃から去來が亡くなった1704年にかけて成立したとみられています。

発行されたのは、実に亡くなってから70年後なのです。

一時は本当に向井去来が書いたものなのかということまで、話題になったくらいです。

しかしこの本には真に俳句を自らのものにしようとした、創作者の熱い思いが宿っています。

芭蕉の教えを学びたい人にとって、恰好の手引書なのです。

蕉風と呼ばれる芭蕉の俳諧の論点が、みごとにまとめられています。

今日でも多くの読者がいるという事実が、この本の魅力を語っているとえるでしょう。

去来はさまざまな話を書いています。

俳句はわずか17文字の言葉の集積です。

それだけに、表現の選択ミスで、世界が全くかわってしまいます。

本文

今回はその中で、宝井其角の作品についての話です。

其角も芭蕉の門人の1人でした。

此木戸や錠のさされて冬の月

話題の中心は、まさにこの俳句だったのです。

どこにどのような問題があったのか。

読んでいると俳人たちの真剣な雰囲気がつたわってきます。

最初に本文を読んでみましょう。

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   此木戸や錠のさされて冬の月     其角

『猿蓑』撰の時、この句を書き送り、下を、冬の月・霜の月、置きわづらひ侍るよし聞こゆ。

しかるに、初めは文字つまりて、柴戸(しばのと)と読みたり。

先師言はく、「角(かく)が冬・霜にわづらふべき句にもあらず」とて、冬の月と入集せり。
その後、大津より、先師の文に、「柴戸にあらず、此木戸也。かかる秀逸は一句も大切なれば、たとへ出板に及ぶとも、急ぎ改むべし」となり

凡兆言はく、「柴戸・此木戸、させる勝劣なし。」

去来言はく、「この月を柴の戸に寄せて見れば、尋常の気色なり。これを城門に移して見侍れば、その風情あはれにものすごく、言ふばかりなし。

角が、冬・霜にわづらひけるも理(ことわり)なり。

(注)「角」とは芭蕉の門人、宝井其角。先師は亡き師、松尾芭蕉。凡兆は芭蕉の門人、野沢凡兆をさす。

現代語訳

此木戸や錠のさされて冬の月 其角

酒に酔い、夜更けに城門まで戻っては来たものの、すでに錠が下ろされていて通れない。

空を見上げると、澄んだ冬の月が深々と辺りを照らしていた。

江戸にいた其角が、この句を師の芭蕉のところへ書き送り、下の句を「冬の月」か「霜の月」にするか、悩んでおりますという主旨のことを申し上げたことがありました。

ところが、初めの句は「此」と「木」の文字が詰まっていて、芭蕉翁には「柴戸(しばのと)」と読めたのです。

実際は「此木戸」が正しい表現でした。

翁は、「其角ほどの巧者が『冬』か『霜』かで悩むような句ではない。」とおっしゃって、「冬の月」として『猿蓑』に入れました。

その後、大津(滋賀県大津市)からの師の手紙には、「文字が判然とせず、完全に読み違えました。柴戸と此木戸では全く趣きが違います。このようなすぐれた作品は一句とはいえ大切なので、たとえ版木を彫り終えたとしても、急いで改め刷りなおしなさい。」とあったのです。

凡兆は、「『柴戸』でも『此木戸』でもそれといった優劣はないのではないか。」と言います。

それに対して、去来は、「この月を柴の戸とあわせて見たならば、並の情景でしかありません。しかし、この月を城の門の情景にあわせて見れば、しみじみと感慨深くすばらしくて、何とも言いようのないのです。其角が、「冬」か「霜」かで悩んだのも当然です。」と言いました。

芭蕉の読み違え

意味が理解できましたでしょうか。

どういうことかわかりますか。

ここでこの俳句に使った、漢字を見ておかなければいけません。

柴という文字は「此」と「木」からできています。

芭蕉は「此木戸」を「柴戸」と読み誤ったのです。

その瞬間、凡庸な俳句だと思ったのでしょう。

其角ほどの俳人が、この程度のものしかつくれないのかと感じたのかもしれません。

たった1文字の違いで、そこにあらわれたイメージの世界は全く違うものになるのです。

柴でできた垣根は質素な隠者の住まいを代表しています。

確かにその垣根を照らす月もすばらしいです。

しかしこうした情景は風情があるとはいえ、あまりにもありふれています。

多くの人が俳句にしているのです。

一方、「此木戸」では固く閉ざされた城門が眼前に聳えてみえます。

黒々とした城門と、それを照らし出す月の光との対照が鮮やかです。

冬の静けさの中に、研ぎ澄ました月が際立って見えます。

柴戸の垣根と城門を比べてみると、俳句のスケールが全く違うものになってしまうのが、実感できるでしょうか。

一方で「冬の月」は深々と闇を照らすのに対し、「霜の月」は辺りを無暗にきらきらと輝やかせます。

隠者のわび住まいに似つかわしいのはどちらでしょうか。

やはり冬の月なのです。

芭蕉は「たとへ出板に及ぶとも、急ぎ改むべし」と言っています。

当時は木板印刷が主流でした。

つまりこの一句がすばらしいので、たとえ版木を彫り終えてしまったとしても、作り直しなさいといっているのです。

改めよという芭蕉の言動には、俳諧への厳しい姿勢が感じられますね。

連歌から派生した俳諧を、文学にまで高めようとした芭蕉の気概が、よく出ています。

『去来抄』の中でも最も有名な段です。

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俳人がたった1つの言葉に寄せた熱い思いを、想像してみてください。

今回も最後までお付きあいくださり、ありがとうございました。

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