【鴻門之会・項羽と劉邦】この章段を読むと漢文に100倍の親しみが

ハイライト

みなさん、こんにちは。

今回は漢文の授業の中でも人気のある「鴻門之会」を読みましょう。

覚えていますか。

全くそんなの知らないという人は是非、司馬遼太郎の本を読んでください。

タイトルは『項羽と劉邦』です。

漢楚の戦いは中国の歴史の中でも最もドラマチックなものです。

なぜ項羽は負けたのかという点に着目してじっくり読んでみると面白いです。

劉邦は生まれも卑しいし、戦いも得意でありません。

ほとんどの戦さで負けています。

johnhain / Pixabay

その彼がどうして勝てたのか、そこに興味を持って読むと、面白さが倍化します。

叔父の死後、全権を掌握した項羽は秦の主力軍を破ります。

しかしそれより少し前に函谷関を通過し、関中に入ったのは劉邦でした。

項羽の参謀范増は計略を練り、鴻門之会が実現します。

敗因を一言でいえば、やはり項羽には自分を恃むところがありすぎたということでしょうか。

どれほどの才能ある軍師がいても、それを十分に使い切れなかったのです。

しかしなんと言っても生まれはよく、士卒に対する愛情ははかりしれないものがありました。

それは虞と呼ばれた彼の愛妾にも同じように注がれたのです。

ただし敵に対しては全くその一面が消えてしまうという不思議な横顔も持っていました。

生きたまま穴埋めにした人数も一度に20万人という単位だったといいます。

それに対して、劉邦は大きな空洞だったのかもしれません。

その中には何もかもが入りました。

おそらく自分自身をも含みこんで、彼の宇宙は膨張を続けたのでしょう。

劉邦はなぜ自分が戦いをしてるのかさえ、時に分からなくなりました。

いっそ故郷へかえって暢気に暮らしたいと何度も思ったことでしょう。

しかし優秀な部下達は、自分の夢を目の前の男にかけました。

とくに張良と蕭何の活躍は目立ちます。

ほとんど彼等の力学の中で、劉邦は生きていたようなものなのです。

鴻門之会

鴻門とは陝西省西安市の東北にある地名です

漢の高祖劉邦と楚の項羽が会見した所として有名なのです。

紀元前207年、楚の懐王は関中を最初に治めたものを関中の王とすると諸将に約束しました。

懐王は、項羽らを函谷関より関中へ進軍するよう北上させます。

その一方で劉邦には南方ルートの武関より関中へ進軍するよう命じました。

劉邦は軍を進めて秦軍と戦います。

この時、項羽はまだ関中に辿り着いていません

劉邦の後、函谷関に到着した項羽は、劉邦軍の兵が秦の都、咸陽を陥落させたと聞きます。

項羽の軍隊の方が兵力は圧倒的に上です。

本気でかかってきたら劉邦の命などはすぐに吹き飛んでしまいます。

そこで項羽の叔父の項伯は夜密かに馬を走らせました。

張良に会うためです。

項伯は張良とかねてより親しく、かつて命を助けてもらった恩義がありました。

事情を一切話し、張良だけは助け出したいと誘います。

しかし張良はその忠告を拒否し一部始終を劉邦に伝えたのです。

劉邦は驚き、項伯と会って姻戚関係を結ぶことを約束します。

ここで劉邦は一世一代の演技をします。

咸陽の都に入って以来、宝物などを奪う事もしていません。

項羽将軍がお着きになるのを待っていたのです。

函谷関に兵を置いたのは盗賊と非常時に備えるためのものですと理由を告げたのです。

項伯は納得したものの、条件を1つ出しました。

劉邦の謝罪が必要だと言うのです。

項伯が事情を説明したため、項羽も怒りをおさめます。

ここで開かれたのが有名な「鴻門の会」なのです。

剣舞

いよいよ、会談は始まりますが、項羽の部下たちは隙あらば劉邦を殺そうとします。

しかし項羽は劉邦が格下であると侮って甘くみています。

項羽の部下、范増はこのままでは埒があかないと判断し、部下の項荘を傍に呼んで、劉邦暗殺を命じます。

そのために寿をなせと言います。

寿とは相手の長寿を願う祝いです。

その後、剣舞を舞い、隙があったら殺せと言うのです。

失敗したら、お前の一族の命はないと脅します。

しかし劉邦の側も黙ってみているワケではありません。

その意味をすぐに悟ったのは劉邦と姻戚関係を結んだ項伯でした。

同じ祝いの剣舞を披露するといって劉邦の周囲をそれとなく警護します。

隙を見せようとしないのです。

彼の機知がなければ、劉邦はこの危機を逃れられなかったに違いありません。

結局、項荘は劉邦を刺し殺すことができませんでした。

ここが最大のハイライトシーンです。

少しだけ、この部分の書き下し文を載せます。

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范増起ち、出でて項荘を召して謂ひて曰はく、

「君王人と為り忍びず。若(なんじ)入り前(すす)みて寿を為せ。

寿畢(を)はらば、請ひて剣を以つて舞ひ、因りて沛公(劉邦のこと)を坐に撃ちて之を殺せ。

不者(しからず)んば、若(なんじ)が属皆且(まさ)に虜とする所と為らんとす。」と。

荘則ち入りて寿を為す。

寿畢はりて曰はく、

「君王沛公と飲す。軍中以つて楽を為すなし。請ふ剣を以つて舞はん。」と。

項王曰はく、「諾」と。

項荘剣を抜き起ちて舞ふ。

項伯も亦剣を抜き起ちて舞ひ、常に身を以つて沛公を翼蔽す。

荘撃つことを得ず。

ロジスティック

その後、劉邦は席を立ったまま戻ってきませんでした。

項羽は陳平に命じて劉邦を呼びに行かせましたが、劉邦は樊噲と共に鴻門をすでに去っていました。

この時、劉邦の部下、張良は、劉邦が酒に酔いすぎて失礼をしてしまいそうなので中座したと項羽に謝罪します。

贈り物をもらった項羽は機嫌がよかったのです。

しかし范増は情に負け、劉邦を殺すチャンスを逃した項羽に対し失望しました。

劉邦の部下にはロジ担当の部下、蕭何がいました。

彼にはもともと食料の補給と法の秩序という観念しかありませんでした。

それだけ劉邦の真空が強かったということでしょうか。

項羽は自分の血につながったものだけを優遇し、最後はそのことがもとで参謀范増にも去られます。

戦えば必ず勝つ勇敢な楚の兵士と項羽が負けるワケはないのです。

それなのに破れてしまう。

そこが歴史の面白いところです。

最後は和議をして、故郷に戻ろうとする項羽を劉邦は裏切り追撃します。

韓信という将軍を手にしていた劉邦の強みがいかんなく発揮されたのです。

ある夜包囲軍の中から楚の歌が聞こえてきました。

項羽は数十万の兵士をあっという間に失い、最後は虞美人を自ら手にかけ、自刃して烏江のほとりで壮絶な死をとげます。

このくだりは『史記』の中でももっとも詩的なところです。

司馬遷が各地を訪ね、二千年の歴史を書く原動力になったのは、この場面ではないでしょうか。

どこか『平家物語』に通じる美意識を感じさせます。

滅びていくものの美は、それが雄大であればあるほど、人の心をうつものです。

木曽義仲と巴御前に似た物語の系譜をついここには見てしまいます。

さて項羽の敗因は、何だったのでしょうか。

その1つの要因として考えられることは食事にあったと思います。

数十万の兵士に与える食べものということを常に考えていた劉邦と彼の部下蕭何。

それに対して、食べ物はどこからか降ってくるか、略奪すればよいと考えていた項羽の差は歴然としています。

勇敢無比の項羽と仁徳の力だけで天下を制した劉邦。

今の時代に生きていたら、どちらが覇者となるのでしょうか。

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ちなみに項羽がなくなったのは紀元前202年、31才の時でした。

今回も最後までお付き合い下さり、ありがとうございました。

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