【二月つごもり頃に・枕草子】白楽天の詩を上の句に据えた清少納言

二月つごもり頃に

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は清少納言が書いた随筆『枕草子』の中から、「二月つごもり頃に」を読みましょう。

つごもりというのは下旬のことです。

旧暦ですから、現在の暦でいえば、3月頃のイメージでしょうか。

一条天皇の中宮定子のもとへ出仕した清少納言は、持ち前の才知を発揮しました。

瞬く間に宮中に名を馳せるようになったのです。

定子は一条天皇の寵愛を一心に受けていました。

しかし父道隆の死後、定子の兄弟伊周、隆家は実の叔父道長との政権争いに敗れます。

その頃から定子の運命は急転していったのです。

それにひきかえ、日の出の勢いとなったのは、道長の娘、一条天皇の中宮におさまった彰子でした。

悲運の定子は24歳で短い生涯を閉じたのです。

清少納言は定子が命を終えるまで、宮仕えを続けました。

政治は非情なものです。

父親の権力が娘に宿り、やがて生まれた子供が次の天皇になるのです。

外戚として、関白藤原道長は権力を全て手中にいれました。

これから学ぶ「二月つごもり頃に」はまだそれ以前の話です。

定子の立場もしっかりとしたものでした。

サロンに仕え始めた清少納言にとっては、日々の暮らしが華やかに彩られていたのです。

当然、宮中にいた人たちにとっては、清少納言の品定めが関心の的でした。

どの程度の能力を持った人なのか。

さまざまな方法で試されたのです。

その最初の関門が和歌の実力でした。

本文

二月つごもりごろに、風いたう吹きて、空いみじう黒きに、雪すこしうち散りたるほど、黒戸に主殿寮来て、「かうて候ふ。」と言へば、寄りたるに、「これ、公任の宰相殿の。」とてあるを、見れば、懐紙に、少し春ある心地こそすれとあるは、げに今日の気色にいとよう合ひたる。

これが本はいかでかつくべからむ、と思ひ煩ひぬ。

「たれたれか。」と問へば、「それそれ。」と言ふ。

皆いと恥づかしき中に、宰相の御答へを、いかでかことなしびに言ひ出でむ、と心ひとつに苦しきを、御前に御覧ぜさせむとすれど、上のおはしまして、大殿籠りたり。

主殿寮は「とくとく。」と言ふ。

げに遅うさへあらむは、いと取りどころなければ、さはれとて、空寒み花にまがへて散る雪にと、わななくわななく書きてとらせて、いかに思ふらむとわびし。

これがことを聞かばやと思ふに、そしられたらば聞かじとおぼゆるを、「俊賢の宰相など、『なほ内侍に奏してなさむ。』となむ定め給ひし。」とばかりぞ、左兵衛督の中将におはせし、語り給ひし。

現代語訳

二月の末頃に、風がひどく吹いて、空がとても暗くて、雪が少し舞い散っている時のことです。

黒戸に主殿寮の役人が来て、「ここに控えています。」と言うので、近寄ったところ、「これは、公任の宰相殿のです。」と言って手紙を差し出しました。

見ると、懐紙に、少し春らしい気持ちがするよとあるのは、本当に今日の景色にたいそう合っています。

この歌の上の句はどのように付けたらいいのか、と思い悩んでしまいました。

私が「公任様と一緒にいるのはどなたとどなたですか。」と尋ねると、「誰それがいらっしゃいます。」と返事があります。

皆たいそう立派な方たちの中に、宰相殿へのご返事を、どうしていいかげんに言い出せましょうか。

言い出すことはできません。

自分一人の心で考えるのは大変なので、中宮様にお目にかけようとしましたが、天皇がおいでになられて、おやすみになっていらっしゃいます。

主殿寮の役は「早く早く。」と言うのです。

へたくそな歌に加えて、つくるのまでが遅いというオマケまでついたとすれば、たいそう取り柄がないことになってしまいます

そこで、どうにでもなれと思って、空が寒いので、花かと見まちがえるように散る雪にと、ふるえながら書いて主殿寮の役人に渡しました。

しかし先方はどのように思っているのだろうかと思うとつらくてたまりません。

この上の句の評判を聞きたいと思うものの、悪く言われているならば聞かない方がいいとまで考えつめました。

その後、「俊賢の宰相などが、『やはり清少納言を内侍にいたしましょうと天皇に奏上しよう。』とお決めになってくださいました。」とか。

その話を今の左兵衛督で当時中将でいらっしゃった方が、私にお伝えくださいました。

白楽天の漢詩

この話は黙って読んでいると、少し自慢話めいたところがみえてきます。

清少納言はそういうつもりで書いたのでしょうか。

ここは意見のわかれるところです。

彼女は中宮定子のためにはなんでもしてあげたいという熱意の人でした。

だから自分の才能をひけらかすというよりも、定子様のためになるのならば、自分の漢文の力も役に立てばいいと考えたのです。

漢文は当時、男性の正式な文字でした。

女性が漢文を習うということはなかったのです。

清少納言は歌人の父親も清原元輔に教えられました。

元輔は平安中期の歌人です。

祖父深養父(ふかやぶ)とともに三十六歌仙の一人なのです。

当時としては大変に珍しいことでした。

この上の句にはどういう意味があるのでしょうか。

白居易の詩集『白氏文集』に「南秦(なんしんの)雪」と題した詩があります。

その中に次のような一節があります。

三時雲冷多飛雪  三時(さんじ) 雲冷やかにして多く雪を飛ばし
二月山寒少有春  二月(にがつ) 山寒くして春有ること少なし

春夏秋の三時も雲は冷え冷えとして、雪を舞わせることが多く、
二月になっても山は寒々として、春らしい季節は短い。

白楽天は、春なのに雪が風に吹かれているという景色を描写しています。

公任はこの詩の「春有ること少なし」を「少し春めく心地ぞする」と言い換えました。

清少納言は、この漢詩を知っていたのです。

逆にいえば、彼女ならきっとこの詩と風景を思い出して応答するだろう、と予測して下の句を送ったのです。

AdinaVoicu / Pixabay

案の定、清少納言は公任がこの詩を下敷きとしたことを理解しました。

だから「げに」という表現があるのです。

直訳すれば、もっともだという意味です。

白居易の漢詩にある通り、春の雪景色を示していると思い、上の句をつくりました。

「空寒み」という表現は和歌などに特有なものです。

ここに出てくる「み」は形容詞につけて「~なので」という意味になります。

「空寒み花にまがへて散る雪に」は空が寒いので、花と見間違えるように散る雪でと訳せばいいでしょう。

藤原公任と清少納言の合作としてこの歌がうまれました。

空寒み花にまがへてちる雪にすこし春ある心ちこそすれ

うづみ火にすこし春ある心ちして夜ぶかき冬をなぐさむるかな(藤原俊成『風雅集』)

平安末期になると、上の句と下の句を唱和する方法が生まれます。

連歌と呼ばれるものです。

次の室町時代になると、さらに文学として完成するようになりました。

この流れは次の江戸期に入って、俳諧へと受け継がれていくのです。

清少納言には「香炉峰の雪」の段などにもみられるように、漢詩への理解が大変深いという特質があります。

もう一方の紫式部も漢文は読めました。

しかし彼女はそのことを人に知られるのを怖れていたようです。

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ここにも2人の文学者の性格の違いがよく表れています。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

【枕草子】清少納言の鋭い人間観察力は神品そのもの【定子への敬慕】
『枕草子』を書いた清少納言は人間観察の達人でした。ものづくしの段を読んでいると、その鋭さに舌を巻きます。じっとものを見続ける目の確かさとでもいえばいいでしょう。定子への敬慕にも並々でないものを感じます。すぐれた作品を味わって目を養ってください。

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