言葉を生きる
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は批評家、若松英輔氏の文章を読みます。
この教材は高校3年生の現代文の教科書に所収されているものです。
タイトルは「言葉を生きる」。
長いものではありません。
民芸の提唱者で宗教哲学者であった柳宗悦は1921年、妹を異郷で失いました。
その時の文章を題材にしています。
悲しみというキーワードを中心に感想を綴ったエッセイです。
妹を失った柳宗悦の心情を、筆者は自らのものとして体感しようとしたのです。
人はたった1つの言葉を見つけるために長い時間を費やすという表現には、深い実感がこもっています。
それは徒労ではなく、むしろ人生を根本からかえる力なのだとも呟いています。
若松氏の文章は、声高に語られたものではありません。
それだけに、じわじわと胸に沁みこんできます。
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私たちは、理不尽なできごとにあまりに多く出会いすぎてきました。
福島の原子力発電所の事故も、地震による津波が原因です。
その後の、コロナウィルスによる世界的な蔓延。
さらにはロシアによるウクライナ侵攻。
わずか数か月前のことです。
今では地球規模での影響を誰もが感じています。
今の世の中に、こういう形で戦争があるのだということが信じられません。
さらには地球温暖化の波があります。
この先、何が起きるのか、誰にも全く予想がつかないのです。
人の死
多くの人が亡くなりました。
何人の人が涙を流したことでしょう。
天変地異で命を落とした人も、自分が当事者になるとは思わなかったでしょう。
ましてや突然の戦争で、死んだ人たちの無念さは想像を絶します。
人は1度しか生きられません。
本来生きられるはずだった時間を、残したまま亡くなっていくことを考えれば、悲しい気持ちが増すばかりです。
このエッセイにおいて、柳宗悦の話はあくまで1つの挿話にすぎません。
しかし現代の話は挿話ではすまないのです。
本来なら、死ななくてもよかった人の死です。
人は本当に悲しい時は泣けないとよく言います。
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子供を見ていればよくわかりますね。
突然転んで足を怪我したとき、子供はただきょとんとしています。
母親が子供の名前を呼んだ途端に、突然火がついたように泣き出すのです。
やっと安心できるからです。
泣いてもいい状態を本能が感じとります。
そして初めて大きな声をあげます。
大人も同じです。
本当に悲しみを理解してくれる人の前でしか、安心して泣けません。
つまりそれだけ深い悲しみを理解してもらうのは、大変なことなのです。
文章の1部をここに取り上げます。
実感のこもったいい文です。
味わってください。
本文
悲しみを経験したことのない人はいないだろう。
ことさらに語ることはなくても、誰もが悲しみの経験を宿している。
悲しみは、最も平等に与えられた人生の出来事なのではないだろうか。
人は、喜びによってよりも悲しみによって、他者と、強く、深くつながっているとすら思われる。
同じ悲しみは存在しない。
悲しみの重さを比較することはできない。
存在するのはいつも、かけがえのないたった一つの悲しみだけだ。(中略)
悲しむものをいたずらに励ましてはならない。
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そうした人々が切望しているのは安易な激励ではない。
望んでいるのは、涙がそうであるように、黙って寄り添う者ではないだろうか。
更に言えば、励ましとは、頑張れというような一方的な言葉をかけることではなく、容易に言葉になろうとしない相手の感情を写し取ろうとすることなのではないだろうか。
語られない励ましが、かえって深く人を癒すこともあるだろう。(中略)
また悲しみに生きる人は、たとえその姿が悲痛に打ちひしがれていても、私の目には勇者に映る。
勇気とは、向こう見ずの勇敢さではなく、人生の困難から逃れようとせず、その身を賭して生きるものを指す言葉になった。(中略)
悲しみの経験は、痛みの奥に光を宿している。
悲しみの扉を開けることでしか差し込んでこない光が、人生にはある。
その光によってしか見えてこないものがある。
柔らかな表現
筆者の文章にはどこか救いをいつも感じようとする柔らかさがありますね。
「悲しみの経験は、痛みの奥に光を宿している」という表現を味わってみてください。
必ず、どこかから光が差してくるという信仰に近いものを感じます。
難しい言葉ですが、「交感」という言い方があります。
魂と魂が触れ合って、ともに心があたたかくなることです。
あることばと別の言葉が出会い、そこで心が通奏低音のように響き合う。
そんな瞬間が最もすばらしいと感じます。
きっと誰もが、そうした瞬間に出会うために、言葉を探しているのではないでしょうか。
現代は効率第1の時代です。
そこで使われる言葉は、事務的なものです。
しかし筆者が望んでいることばは、その人の人生の中から紡ぎ出されてきた大切な宝石のようなものなのでしょう。
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そこに潜んでいる喜びも悲しみも、感じ取ってくれる相手との交感があって、はじめて意味を持つに違いないのです。
同じ悲しみがあるとは思えません。
誰もが、自分の悲しみを相手の上に投影して、想像する。
それ以外にはできないのです。
人間の感情とは、そういうものなのでしょう。
それ以上を望んでいるワケではないはずです。
こういう内容の文章は、授業で扱うのがなかなか難しいです。
生徒にどこまで理解してもらえるか。
それが生命線です。
普段、言葉をいかに不用意に使っているかということを実感させなければいけません。
難しい表現は全くないです。
どこまで想像力の羽を広げられるかにつきます。
内容を感じ取れる生徒は、自我がきちんと育まれているに違いないのです。
感想文とともに、自分の悲しみについて、書かせてもいいですね。
豊かで感じやすい生徒ほど、いい文章を紡ぎ出してくれるはずです。
大岡信の「ことばの力」などとも内容がリンクしています。
今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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