プロフィール

はじめに

はじめまして、こんにちは。

アマチュア落語家、春乃家すい喬です。

少し長くなりますが、ぼくの横顔を書かせてください。
しばらくおつきあいいただければ、幸いです。

少年時代

生まれたのは戦後しばらくして、世の中もだいぶ落ち着いてきた頃です。
子供の頃はどちらかといえばひ弱な子供だったようです。

新宿区役所の前にぼくの家がありました。

前はお寿司屋さん、隣は大きな料亭です。
奥が都電の引き込み線でした。

小学校4年までいたので、いろいろな思い出があります。
新宿御苑にはよく行きました。

遊び場は伊勢丹の中、裏の花園神社。

 

 

お祭りは壮大で、お神楽をじっと眺めたり、小屋がけの芝居を見たり。
それはそれは楽しい時間の連続でした。

通りを隔てたところには松竹文化演芸場があり、そこへ毎週のように通いました

牧伸二の漫談、立川談志の落語、鹿島密夫、灘康次たちのボーイズもの。
石井均一座の喜劇。

この劇団には後のてんぷくトリオのメンバーがいました。
毎週、ここから今のテレビ朝日が中継をしていたのです。

伊東四朗がまだ20歳くらいだったでしょうか。
座長の石井均はその後大阪へ行き、漫才の西川きよしを育て上げました。

ぼくが新宿時代に見た風景は、いまの土台になっているといえます

その後、東京都内の某区へ転居。
ここで20代の前半までを過ごします。

多感な時代でした。
とにかく目立つことが好きでした。

本を読むことも覚えました。

小学校高学年の頃は『十五少年漂流記』『ロビンソンクルーソー』など冒険ものに憧れました。

中学校では夏休みに吉川英治の『新書太閤記』を読破しました。
とても長かった印象が残っています。

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青年時代

高校に入ってからは合唱に目覚めました。

文化祭でオペラを演じました。
一夏中、毎日稽古をして、今でもいい思い出です。

その後浪人をして大学へ入学。

最初は数学の教師になろうと思い、数学科に入りました

しかし高校のそれとはあまりにもレベルが違い愕然とした記憶があります。
3年になると全員がゼミをとらなくてはなりません。

もうこのままではどうしても行き詰まると思い、学生課に相談に行きました。

学部をかえる決意をしたのです

文学部に移るためには、もう一度試験を受けなければなりません。

小論文、英語、フランス語、面接。

一般の入試と同じ日に別室で受験しました。
幸い、合格。

それから2年間、哲学とフランス文学を学びました。
いい友人や先生にも恵まれました。

友達と2人で先生の家を何度か訪ねたりもしました。

さて卒業はしたものの、一般企業に就職する気にもなれません。
しばらく家にいました。

その後、出版社の試験を受け、記者生活が始まったのです

外国へ旅行をする人がやっと100万人を超えたという時代です。
次第に世の中は高度経済成長へ向かい始めていました。

最初に韓国、さらにグアム、サイパン、ヤップ、パラオなどへの取材旅行をしました。
楽しかったです。

その後国語の教師になって、好きな本を読み、勉強を続けたいと思うようになりました。
教職科目をとらなかったこともあり、通信教育を開始。

レポートを毎週提出する日々が続きました。
やがて教育実習のため、ついに退職を決意。

その翌日から新米教師の卵です。
26歳になっていました。

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フリーライター時代

教員の免許はとれる見込みがたったものの、退職したばかりでさて何をしたらよいものか。
途方にくれる日々でした。

しかし以前の会社にいた方が、広告代理店を紹介してくれたのです

ニュース・リリースを書くという仕事を、させていただくことになりました。

日本を代表するこの会社は、ありとあらゆる広告を扱っていました。
あちこちの会社を訪ね、見聞をひろめさせてもらうことができました。

夜は銀座のバーにも連れていってもらい、飲料業界の広告宣伝の打ち方を目の前で見せてもらいました。

デパート、カメラ、楽器、家具、商社など、多くの企業の仕事をしました
この経験はぼくにとっての大きな財産になっています。

その後、私立の高校から非常勤講師のオファーをいただき、フリ-ライターの活動はそこで終止符を打ったというわけです。

教師時代

ここから生活が大きくかわりました。

すべて自分の裁量で生徒と関わるという楽しみが増えたのです。
最初の半年は千葉県の私立高校へ。

その間に東京都教員試験を受けて、4月から杉並区の高校へ赴任

ここでは何をやっても許されました。
授業をする時間以外は、ずっと勉強をしていてもよかったわけです。

こういう生活もあるのかというのが実感でした。
30代の前半になり、小説を書き始めました。

何度か投稿もしてみました。
大きな文学賞の最終候補に3度ほどノミネートされたこともあります。

詩も書きました。
『現代詩手帖』にはほぼ毎月載せてもらいました。

どれも懐かしい思い出です。

また演劇部の顧問として、好きな芝居の演出にも挑戦。
演技の達者な生徒が何人かいました。

担任を終えた後、進路部へ配属されました。

就職する生徒が多かったので、教員4人で300名の生徒の就職斡旋をしました
今考えても、これは激務でした。

幸い、会社勤めをしていたことが役に立ちました。
時はまさに高度経済成長期。

面白いように、実績をあげられ、いい勉強になりました。

それ以降、様々なタイプの高校を経験しました。
それぞれに思い出が深く、懐かしいことばかりです。

クラブ顧問も演劇、男子バレー、合唱、落語、サッカーとあれこれやりました。
分掌も進路、教務、保健、図書、生徒部となんでも…。

担任は都合7回。
生徒たちとの思い出が、ぼくの財産の全てです

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この時代にやり続けたことは小論文指導です。
添削を含めて、20年以上はやったでしょうか。

大学時代の友人が、某大手予備校で小論文の授業を担当していたこともあり、その手伝いをしました。

添削は大変に手間のかかる仕事です。
しかしそれだけに学ぶことも多かったです。

その蓄積は今でも身体の中に刻み込まれています。
このブログでも、いずれご紹介できる時があるかもしれません。

落語修行・現在も…

58歳の時でした。
多摩市の広報に落語の講習会を開催するというお知らせが載っていたのです。

主催は「多摩落語寝床の会」というはじめて聞く名前の団体でした。

4週間で1つの噺を稽古し、最後に発表会を行うというものです。

その頃、退職後の生き方を考えていました。
何かやりたい。

自分の好きなもので、誰かのお役にたてるもの。
とにかく落語は大好きでした。

毎日寝る前にipodにいれた小三治などの落語をずっと聞いていました。

しかし自分で話すことになるなどとは、思ってもみなかったのです。
直感が働きました。

これならやれるかもしれない。
さっそく応募しました。

それからは毎日、猛稽古。
ついに発表会の日がきました。

あれから10年以上

歳月が過ぎるのははやいものです。
まさか、その会に今もずっとお世話になっているとは…。

その間に、たくさんの落語会に出させていただきました。
プロの噺家さんとも知り合いになれ、真打昇進披露のパーティなどにも出席しました。

日常の生活とは違う、もう一つの顔を持てたような気がしています。
落語を覚えて人前で演じるというのは、ただ見ているのとは全く違います。

一言でいえば、苦しくて楽しい

病が高じて、最後に在籍した高校では、ついに落研までつくってしまいました。

生徒と一緒に高座にあがり、文化祭で何席、喋ったことか。

日々、とにかくいろいろなことがあります。
落語生活は現在も進行中です。

これから「すい喬Blog」を毎日1本を目標に、コツコツと綴っていきます。
どうぞよろしくお願いしますね。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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