【ぬくみ・鷲田清一】なぜ近代人は寂しいのか【誰かと繋がっていたい】

小論文

ぬくみ

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は高校の現代文でよく扱われる哲学者、鷲田清一の『ぬくみ』を取り上げます。

この表現の意味がわかりますか。

漢字で書くとぬくみは「温み」と記されます。

つまりあたたかさですね。

人間同士の肌の触れ合いを感じさせる言葉です。

逆にいえば、その「ぬくみ」が現代の生活から抜け落ちてしまっているのではないかというのが、筆者の論点です。

どうしたら誰かと繋がることができるのか。

それをさまざまな角度から考えていこうという文章です。

なぜ近代の都市生活は寂しいものになってしまったのか。

誰もが面倒な近所づきあいから離れようとした結果が、今の寂しさを浮き彫りにさせてしまったというのが論旨です。

疲労感を覚える生活とはどのようなものなのでしょうか。

人はみな自分の存在をかけがえのないものと考えます。

それだけに、どのようにしたら他者と結びつくことができるのか。

もし不要であると決めつけられたら、生きていく価値が極端に下がってしまいますね。

ある意味、無条件で存在を認めてほしいという気持ちは、誰にでもあるでしょう。

そのために、人はどうすればいいのか。

それを「ぬくみ」という言葉をキーワードにして探っていこうというのです。

本文

寂しいから、と人は言う。

だが、寂しいのは、自分がここにいるという感覚が自分がここにいるという事実の確認だけでは足りないからだ。

人が最も強く自分の存在を自分で感じることができるのは、

褒められるのであれ貶されるのであれ、愛されるのであれ憎まれるのであれ、

まぎれもない他者の意識の宛て先として自分を感じることができるときだろう。

「ムシられる」(無視される)ことで人が深い傷を負うのは、

自分の存在がまるでないかのように扱われるからであり、

自分のこの存在がないことを望まれていると感じるから、そういう否定の感情に襲われるからだ。

誰からも望まれていない生存ほど苦しいものはない。

唐突にと思われるかもしれないが、近代の都市生活というのは寂しいものだ。

「近代化」という形で、人々は社会のさまざまなくびき、

「封建的」といわれたくびきから身をもぎ離して、自分が誰であるかを自分で証明できる、

あるいは証明しなければならない社会をつくりあげてきた。

少なくとも理念としては、身分にも家庭にも親族関係にも階級にも、

性にも民族にも囚われない「自由な個人」とは、彼/彼女が帰属する社会的なコンテクストから自由な個人ということだ。

それら血縁とか地縁といった生活上のコンテクストがしだいに弱体化し、

家族生活も夫婦を中心とする核家族が基本となって世代のコンテクストがくずれていった。

さらに社会のメディア化も急速に進行し、そうして個人はその神経をじかに「社会」というものに接続させるような社会になっていった。

いわゆる中間世界というものが消失して、個人は「社会」の中を漂流するようになった。

社会的なコンテクストから自由な個人とは、裏返していえば、自らコンテクストを選択しつつ自己を構成する個人ということである。

自分が誰であるかを自ら決定もしくは証明しつつ自己を構成する個人ということである。

言論の自由、職業の自由、婚姻の自由というスローガンがそのことを表している。

けれども、そういう「自由な個人」が群れ集う都市生活は、

いわゆるシステム化という形で大規模に、緻密に組織されていかざるをえず、

そして個人はその中に緊密に組み込まれてしか個人としての生存を維持できなくなっている。

つまり自分が選択しているつもりで、実は社会のほうから選択されているという形でしか自分を意識できないのだ。

自由の持つ寂しさ

タイトルの「ぬくみ」という表現は、見事ですね。

この言葉が全てをあらわしているような気がします。

どうして今のような社会になってしまったのか。

人は群れ集うことに疲れていたはずなのです。

だからこそ、現代の社会をつくってきました。

日本の問題は都市の問題そのものです。

もちろん、地方によっては、そんなことは全く問題ではないという地域もあるかもしれません。

しかし事実を積み重ねていくと、限りなく都市の課題が、国全体に広がっているのを感じます。

この文章を読んで、小論文の問題をつくるとしたら、どのようなものになるでしょうか。

少し考えてみましょう。

最もインパクトのある表現は何か、という視点から探るのが常道です。

やはり「寂しさ」と「ぬくみ」に突き当たりますね。

それが「近代の都市生活」とリンクしているからです。

設問として、可能なのは次のようなものではないでしょうか。

設問1 近代の都市生活を筆者は寂しいものだと断じています。あなたはその理由がどのようなものだと考えますか。

設問2 筆者の論じる「寂しさ」から抜け出すための方策にはどのようなものがあると思いますか。

あなたの経験をもとにして800字以内で答えなさい。

設問1で、どの程度の読解能力があるかを判断します。

cuncon / Pixabay

さらに設問2で、文章力、構成力など、かなり広い視野まで見通せるのではないでしょうか。゜

試みにご自身で書いてみてください。

何が最も大きな問題ですか。

特に「社会的コンテクスト」が何を意味しているのか、理解していないと答えに窮することになります。

近代は封建的な社会でした。

そこから人々は自由になりたかったのです。

自分の価値を自分でみつけることができる社会そのものを目指したのです。

地縁、血縁で繋がる社会を棄てて、人々は羽ばたこうとしました。

発信することの意味

ここで問題なのは、そこで私たちは自由を本当に獲得したのかということです。

もっといえば、自分を自分として肯定してくれる社会が成立したのかということでもあります。

もしそうでないとしたら、現代は非常に息苦しい社会であるに違いありません。

誰かと繋がっていると思ったのは、錯覚でしかなく、むしろ冷たい人間関係が横たわっていただけだという論点も考えられます。

遮断されているという感覚は、むしろ若い世代の人たちの方が強いのかもしれません。

SNSなどを使って、たえず人々の関係を探っている背景には、もしこの繋がりが切れたら、

どこへいけばいいのか全くわからないという現実もあるような気もします。

自分を自分としてそのまま認めてくれる他者の存在が今こそ、必要なのではないでしょうか。

眼の前にいる人間をありのままに肯定することの大切さが、重要になっています。

しかしただ認めてほしいというのではなく、同時に相手に対する想像力を最大限に発揮する必要もあるでしょうね。

なにも発信することなく、ただそこにいるというだけでいいという在り方も当然あっていいのです。

しかしもし佇んでいるのであれば、逆に光を発することも可能です。

その双方向性について論じていくことが大切なのではないでしょうか。

「地縁」「血縁」から必死に抜け出そうとした結果が、何者かでなければ生きていけない社会を作り上げてしまったのです。

そのことの持つ矛盾をさらに深掘りしてください。

自分の経験が生きるところです。

「格差社会」とか「親ガチャ」などという言葉を、今では誰もが使います。

その表現の中にある「寂しさ」について、言及するだけで、かなり内容のある文章になるのではないでしょうか。

ぜひ、1度まとめてみてください。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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