【小論文・人権】マスコミはなぜ事件の容疑者を男や女と呼び捨てにするのか

暮らし

人権問題の現実

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は少し人権について考えてみます。

難しいテーマですが、よく入試に出ますね。

誰もが人権尊重を、と唱えます。

正面切って反対をする人はいません。

しかしその実態はあまり見えてこないのが現実です。

実際にどのような問題があるのでしょうか。

2021年に名古屋市にある出入国在留管理庁の施設で、33歳だったスリランカ人の女性が、衰弱の末に亡くなった事件がありました。

覚えている人も多いはずです。

彼女は強制退去の対象となった人を収容する施設に、長く留め置かれたままでした。

十分な医療を受けられなかったのが、死亡の原因です。

容態が悪化しても、点滴すらしてもらえなかったそうです。

オーバーステイ(超過滞在)となった外国人には、人権の概念がないのかという問題です。

日本の入国管理の在り方の基本に関わるテーマですね。

もちろん、不法に滞在する人をそのままにしておいていいわけはありません。

誰もが法律にしたがう必要はあります。

しかし病気で具合が悪いのに、それを無視したような態度をとることは許されません。

これは人道上の基本的な問題です。

改善策として、その後常勤配置されたという医師の態度にも驚かされました。

酩酊状態で出勤し、呼気検査でアルコール分が検出されたというのです。

こういう話をきくと、人権という概念と、その現実との落差を実感します。

機会があったら、その後の報道などを調べてみてください。

小論文を書く時に、核となる知識があるかないかは、文章のリアリティに大きな違いを生みます。

バールのようなもの

バールのようなもので、よく頭を打たれて殺されたという報道があります。

NHKなどはそういう時、必ず「バール」とは断言せず、「バールのようなもの」と表現します。

未確認情報ですからね。

「心肺停止」もそうです。

普通に考えれば、心臓と肺が動かなくなったら、即死です。

しかし確認が取れていないので、「心肺停止」となります。

「バール」と「バールのようなもの」はどれくらい違うのか。

これもかなり悩ましい問題です。

落語家の立川志の輔などは、このネタから新作の落語を作っています。

機会があったら聞いてみてください。

しかし何ごとも考えてみると、世の中は複雑なことばかりです。

日本という国は、どちらかというと、単一民族型の国です。

それだけに細かな差異には、すぐ目が届くのかもしれません。

特に犯罪にからんだ話には、実に見事な表現を使っています。

その1つが「男性」と「男」。

「女性」と「女」の使い分けです。

ニュースを聞いていると、何度もこの表現が出てくるので驚きます。

人権以前に、階層という思想が、どこか根のほうにこびりついているのかもしれません。

ちょっとした差がどうしても気になるのでしょう。

日本語の特徴として、人称を語る代名詞には実にいろいろなものがあります

その人が自分のことをどう呼ぶかで、かなり出身階層がはっきりと分けられるのです。

『吾輩は猫である』などという漱石の小説は『ぼくは猫である』にしたら、随分とつまらない話になってしまったかもしれません。

女性と女の差

基本的に犯罪にからんだ時の呼び方は難しいですね。

以前は警察に逮捕された段階で、報道はすぐに敬称をとってしまいました。

ニュース原稿でも、名前を呼び捨てにしていたのです。

しかしまだ犯罪が確定したわけでもないのに、これはやりすぎだろうということで、容疑者を後ろにつけることにしました。

例としては、山田太郎容疑者といったパターンです。

現在はこれが主流ですね。

しかし名前もわからない場合はどうすればいいのか。

犯罪者をどのように呼べばいいのかということです。

そこで使われるようになったのが「男」と「女」です。

非常に抽象的な表現ですが、これで「社会性を持った呼称」ではない、一般の型に当て嵌めようということになりました。

被害者は「女性」と呼ばれ、犯人と思われる人物は「女」と呼ばれるようになったのです。

確かにこの呼び方はなんとなく犯罪者にピッタリきます。

ところがこれもよくよく考えてみると、全てが推定の域を出ていないのですから、本当に犯罪者であるかどうかもわかりません。

逆に正当防衛であったかもしれないのです。

その結果、犯人に見えたということも十分に考えられます。

この論点は人権との関係が非常に濃厚です。

つきつめていけば、もっと適当な表現があるのかもしれません。

容疑者の「男性」という表現と容疑者の「男」という言い方の差には、どこかに決めつけた要素があるのかないのか。

それもあらためて考えてみなくてはなりません。

人権と呼称

学校などでも人権の問題は、呼称と密接な関係にあります。

最近では名票も男女混合のものを使うのが普通になりました。

以前は男子が先で、女子がその後でした。

しかしこれは男女平等の思想に反するという意見が強く、切り替わりつつあります。

これと同じように教師が生徒をどう呼ぶのか、というのも問題になっています。

一般に「さんさんづけ」と呼ばれています。

かつては生徒を姓だけで呼んだり、ニックネームで呼ぶなどということもありました。

現在でも姿を消したとは言えません。

しかし個人の尊厳を守るという考え方が最近、かなり声高に言われるようになりました。

男子なら「君」、女子なら「さん」と呼ぶのが今までの通例でした。

PublicDomainPictures / Pixabay

しかしこれも近年では男女に関係なく「さん」で呼ぶというのが流れになりつつあります。

ジェンダーの考え方が、より広く受け入れられるようになってから、急速に広がりを見せているのです。

敬意ということよりも、男女の差をなくすといった方向に近いのではないでしょうか。

ちなみに「容疑者」はマスコミ用語に過ぎません。

法律上の表現としては「被疑者」が正しいのです。

しかし「被疑者」では「被害者」との聞き間違いが多いため「容疑者」が使われることになったという話です。

社会の隅々に人権という言葉が眠っています。

普段は全く気にしていませんが、なにか事件が起こると、突然その姿を現すのです。

それだけにかなり神経質にならざるを得ない問題を孕んでいると言えます。

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今回はかなり散漫な内容になりましたが、奥深いところに宿っている考え方の一端に触れてみました。

最後までお付きあいいただき、ありがとうございました。

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