詩は近いところに
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は詩について考えてみましょう。
詩人というのは本当に不思議な人種ですね。
外観はあたりまえの人間ですが、おそらく脳細胞の組成は少し違っているのかもしれません。
たえず頭の中を、涼やかな風が吹いているように感じられてならないのです。
通常の知覚の外に、もっと柔らかな感覚の束があって、それがたえず風に揺れて、見たこともない言葉を生み出していきます。
きっと不思議な風景が見えているのでしょう。
コモンセンスなどという陳腐な言葉は、彼らの辞書にはないのかもしれません。
もちろん、目の前の所作はごくノーマルです。
しかし詩の魂が、身体の中で戦いを挑んでいるのです。
おそらくそうした心の告白をたえず意識している人たちです。
学生時代にこんなことがありました。
ショッキングだったのは、詩人と小説家4人のシンポジウムを目の前でみたことです。
当然、詩人という人種がいることは知っていました。
しかし実際に会ったことはなかったのです。
以前から、その集まりに出かけることを予定していたわけではありません。
偶然、その会が開かれる場所に遭遇したのです。
授業がなかったので、つい覗いてみる気になりました。
そういう意味で、大学というのは、貴重な場所です。
人間を新しい方向へインスパイアーするためのトポスなのです。
今でもその時の情景をはっきり覚えています。
出席していたのは三木卓、長田弘、入沢康夫、黒井千次の各氏でした。
いずれも「内向の世代」という呼び方で捉えられた人たちです。
はじめてその存在を知ったのは詩人がいました。
入沢康夫氏でした。
彼はその直前に発表した作品『わが出雲・わが鎮魂』の説明をしてくれました。
活字の組み方に工夫を凝らしたこと。
口語文を使って出雲という神話の伝承をあらわしてみたかったこと。
終始、静かな口調で語っていた時の様子が懐かしく思い出されます。
それ以降、詩人という存在を考えるとき、彼らの存在が1つの規範になったのは間違いありません。
詩の授業
授業で詩を扱うのは苦しかったですね。
特にこれと定まった読み方があるワケではありません。
教授用の資料をチェックしても、あまり参考にはなりませんでした。
言葉の意味を分析したところで、理解が深まることはあまり期待できないのです。
むしろ直感に頼るしかありません。
それが詩の本質に違いないのです。
逆にいえば、教授する人間の力量にかかっている部分がほとんどとも言えます。
結局、詩の授業をするときは、読むことになるべく力をいれました。
音読をきちんとできるということが、最も大切だと考えたからです。
それが詩の基本だと信じていました。
詩は今も大好きです。
短い言葉の中に凝縮された詩人の魂には、心を震わせるものがあります。
今までにどれほど、その言葉から力をもらったかわかりません。
詩人はやはり、神業に近い言葉への意志に支えられていると感じます。
しかし同時に、学校で詩を学ぶことの限界も感じますね。
詩の鑑賞は素質に負う部分がかなりあります。
言葉の世界だけが持つ、飛翔感を肌で知った人には勝てません。
蜂飼耳さんの文章に触れたのは、それほど以前のことではないです。
教科書に載っていた「虹の雌雄」が最初でした。
現在はかなり多くの教科書に所収されています。
実にユニークな視野をもっている人だと感心しました。
今回たまたま手に取った新しい文学国語の教科書にも、彼女のエッセイがありました。
一部分を読んでみましょう。
彼女の詩の魂が、そこに透けてみえます。
本文
詩は、それまでにないものの見方を示す方法の1つにほかならない。
言葉が言葉を照らし出し、それによってさらに別の言葉に光が当たり、一編の全体図へ向かって力に似たものを集めていく。
見慣れたものも、見知らぬものになっていく。
一編の詩が生まれる途中の、計画性はないにもかかわらず。言葉を必然的に引っぱっていく力、動き。
それが詩だろう。
次になにが出てくるのかは、わからない。
けれど、出てきたものは、ほとんど説明しがたい次元で素早く動く選択と判断の流れにさらされて、言葉と言葉のあいだに居場所を定めようとする。
言葉は、定められてしまうことから逃れようとしながら、それでも場所を得て、他の言葉を支えたり、あるいは飛び越したり、裏切ったりする。
そんな繰り返しのなかに、リズムやテンポが織り出される。
一編のかたちが浮かび上がってくる。(中略)
意味らしきものを一編の詩から引き出すことはできる、ということは事実だ。
けれど、意味やテーマやモチーフという角度から説明したとしても、それでその一編を語ったことにはならない。
なぜなら、詩は言葉そのものがもつ音の性格と常に1つのものであり、この点を含めることで、単なる意味以上の出来事を引き起こしているものだからだ。
言葉をたどっていって、その先に見えてくる、意味以上の出来事。
そこにある言葉を総合したところ以上の事柄。
鍵はそこにある。(中略)
意味だけではなく、音だけでもない。
さまざまな要素がまざり合う地点に、かろうじて、けれども確かに成り立つ一編のすがた。
そうして、現れては消えていくその影。
自分が求めている詩とは、あえて言葉にしてみるならば、そういうものだ。
詩は、生と死をめぐる最高度の充実が一瞬にして増殖する場だ。
詩という場は、四方から湧き上がってくる。
言葉も言葉のすがたも、予測不能の幅をもって移ってゆく。
未知の場が与えられなかった時代はない。
詩はいつでも近いところにあるのだ。
裏切る言葉を
おそらく言葉というものは、1つの場所で安定することを嫌う性質を持っているのでしょうね。
しかしそれでもある場所で他の言葉を支えようとする。
なんてかわいい存在なのでしょうか。
ところが安心はできません。
裏切りをいつも企んでいます。
そのギリギリの戦いが、詩人にはたまらなく心地良いに違いないのです。
酩酊感とでも呼べるものかもしれません。
確かに人は酔っていたいのです。
だからこそ、新しい言葉にまた出会える。
その感覚がやはり詩の魅力ですね。
常に自分を裏切って欲しい。
と同時に安心をさせても欲しい。
人間はひどく我儘な存在そのものです。
生と死をめぐる最高度の充実が一瞬にして増殖する場だという表現が、詩の全てかもしれないのです。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。