【おらが春・小林一茶】晩年に生まれた娘のあどけなさに思わず笑みが

52歳で結婚

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、ブロガーのすい喬です。

今回は俳人、小林一茶についてまとめてみます。

一茶の代表的な句はなんでしょうか。

目出度さもちう位也おらが春

雀の子そこのけそこのけ御馬が通る

ともかくもあなた任せのとしのくれ

どれも聞いたことがありますよね。

人のいい好々爺としての一茶のイメージがとても強い印象ですね。

しかし現実は違います。

10年以上も亡き父の遺産を巡って、継母と争ったのです。

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そのあたりのことは藤沢周平の『一茶』にくわしく書かれています。

興味のある方はご一読ください。

信州・柏原宿の貧乏な農家の長男として生まれた一茶は、3歳で母親を亡くし、その後、

8歳で迎えた継母との折り合いが悪く、15歳で江戸に奉公に出されてしまいました。

39歳の時、病に倒れた父の看病をするため再び故郷に戻ります。

しかしわずか1ヶ月後に父は死去。

その後に続いた土地の相続争い。

遺産問題が解決した文化10年(1813年)50歳にして故郷に戻り、ようやく初めての結婚をします。

一茶52歳、妻きくは28歳でした。

妻との間に3男1女をもうけますが、生まれた子供は次々と早世。

文政元年に長女さとが生まれました。

しかし、まもなく娘は天然痘にかかり、1歳を過ぎたばかりで亡くなってしまいます。

その後に生まれた子供たちも次々と亡くなっていきました。

やがて妻にも先立たれてしまったのです。

妻きくはわずか37歳でした。

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今回紹介する『おらが春』は、俳人小林一茶の俳諧俳文集です。

彼が北信濃で過ごした1819年(文政2年)一茶57歳の1年間の折々の出来事に寄せて読んだ俳句、俳文です。

没後25年になる1852年(嘉永5年)に門人で親戚にあたる白井一之が、自家本として刊行したものです。

今回は生まれて1歳になった娘の愛らしさに着目してください。

一茶56歳の時の子です。

それをただ喜ぶ彼の視線が慈愛に満ちています。

本当にかわいい描写の連続です。

子供を育てた記憶のある人なら、似たようなシーンをすぐにイメージできるのではないでしょうか。

この後、すぐに幼児が亡くなってしまったことを思う時、実にせつない気持ちになってしまいます。

『おらが春』本文

去年の夏、竹植うる日のころ、憂き節しげきうき世に生まれたる娘、おろかにしても

のにさとかれとて、名をさとと呼ぶ。

今年誕生日祝ふころほひより、てうちてうちあはは、おつむてんてん、かぶりかぶり振

りながら、同じ子どもの風車といふものを持てるを、しきりに欲しがりてむづかれば、

とみに取らせけるを、やがてむしやむしやしやぶつて捨て、つゆほどの執念なく、ただ

ちにほかのものに心移りて、そこらにある茶碗を打ち破りつつ、それもただちに飽き

て、障子の薄紙をめりめりむしるに、「よくした、よくした。」とほむれば、まことと

思ひ、きやらきやらと笑ひて、ひたむしりにむしりぬ。

心のうち一点の塵もなく、名月のきらきらしく清く見ゆれば、あとなきわざをぎ見るや

うに、なかなか心の皺を伸ばしぬ。

また、人の来たりて、「わんわんはどこに。」と言へば犬に指さし、「かあかあは。」

と問へば烏に指さすさま、口もとより爪先まで、愛嬌こぼれて愛らしく、言はば春の初

草に胡蝶の戯るるよりもやさしくなんおぼえ侍る。

(中略)

かく日すがら、雄鹿の角のつかの間も、手足を動かさずといふことなくて、遊び疲れる

ものから、朝は日のたけるまで眠る。

そのうちばかり母は正月と思ひ、飯炊き、そこら掃きかたづけて、団扇ひらひら汗を冷

まして、閨に泣き声のするを目の覚むる合図と定め、手かしこく抱き起こして、裏の畑

に尿やりて、乳房あてがへば、すはすは吸ひながら、胸板のあたりを打ちたたきて、に

こにこ笑ひ顔を作るに、母は長々胎内の苦しびも、日々襁褓の汚らしきも、ほとほと忘

れて、衣の裏の玉を得たるやうに、なでさすりて、ひとしほ喜ぶありさまなりけらし。

蚤のあと数へながらに添へ乳かな  一茶

いかがでしょうか。

情景が読み取れますか。

絵画的なタッチでまとめてありますので、理解しやすいのではないでしょうか。

高校では彼の俳句をいくつか勉強するだけです。

俳文などはほとんどやりませんでした。

現代語訳

去年(1818)の夏、竹を植える日(5月13日頃)につらいことの多いこの世に生まれた娘は、賢くなってほしいと思って名前をさととつけた。

今年誕生日を祝う頃から、ちょうちょうちわわわ、おつむてんてん、かぶりかぶり振り

ながら、同じ年恰好の子供たちが風車というものを持っているのを、しきりに欲しがっ

てむずかるので、すぐに与えたところ、すぐにむしゃむしゃとしゃぶって捨て、少しば

かりの未練もなく、すぐにほかのものに心が移って、そこらにある茶碗を打ち壊したり

してはそれもすぐに飽きてしまって、障子の薄紙をめりめりとむしるので、「よくやっ

た、よくやった」とほめると、本当にほめられたと思ってきゃっきゃっと笑って、め

ちゃめちゃにむしってしまう。

心の内は一点の汚れもなく、名月のようにきらきらと清らかに見えるので、比類ない演技を見るようで、たいそう気分が晴れてしまう。

また人が来て「わんわんはどこに」と言うと、犬を指さし、「かあかあはどこに」と訊

ねると烏を指さす様子は口元から爪先まで愛嬌があふれてかわいらしく、たとえて言う

なら、春の若草に蝶が飛び回るよりも優美に思われるのです。

(中略)

このように一日中、夏の雄鹿の角が生まれ変わったばかりで短いように、ほんのわずか

の短い間も手足を動かさないということがなくて、遊び疲れるものだから、朝は日が高

くなるまで眠っている。

その間だけ母は正月のようにほっと息抜きができて気楽だと思い、飯を炊きそのあたり

を掃き片づけて、団扇をひらひらあおいで汗をしずめていると、寝室で泣き声がするの

を娘の目が覚める合図と決めて、すばやく抱き起して裏の畑でおしっこをさせ乳房を口

に当ててやると、ごくんごくんと吸いながら胸板あたりをたたいて、にこにこと笑い顔

をつくるので、母は長い間胎内に宿していた苦しみも、毎日のおむつの世話をする汚ら

しいことも、すっかり忘れて、衣の裏に縫い込まれていたこの上ない宝を得たように、

なでさすっていっそう喜ぶ様子であるようだ。

子供の様子が目に見えるようですね。

この情景を読んでいると、一茶がかなりの高齢になって子供を得た喜びが目に浮かびます。

女の子がよほどかわいかったのでしょう。

あたたかなまなざし

「さと」という名前をつけた理由もよくわかります。

頭のかしこい人間になってほしいという親心でしょう。

幼児は人のもっているものを次から次へと欲しがります。

その様子をじっと見ている一茶の目は温かいですね。

障子の薄紙を次々と破いてしまうあたりの情景の描写も見事です。

朝もよく寝ている子供のそばで、母親はまるで正月のようだと思い、しばらく休みます。

やがて目を覚まし、お乳をあげると、よく吸います。

その様子を眺めているだけで、産む時の苦労も、おむつの世話もみんな忘れてしまうのです。

それくらい可愛らしい女の子なのでした。

着物の裏に縫い込まれた宝のように感じるという母親の描写には実感がこもっています。

これだけ愛されていたのにこの後、天然痘で亡くなってしまうのです。

この後、男の子をさらに授かるものの、その子たちも死去。

一茶はその後、結婚をしすぐに離婚。

3人目の妻との間に子供ができましたが、生まれた時には、既に父親の一茶自身がこの世を去っています。

ともかくもあなた任せのとしのくれ

この句の中には、自分の力ではどうすることもできない宿命が人間にはあるという一種の諦念も感じられます。

好々爺で子供たちと遊んでいた一茶のイメージとは隋分違っていませんか。

しかしここに表現された親の愛情は確かなものです。

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人間へのいとおしさを感じないわけにはいきません。

子供への愛情は昔も今も少しもかわってないのが、救いでしょうか。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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