倭建命・ヤマトタケル
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は日本の神話を含む歴史書『古事記』を、少しだけ読んでみましょう。
高校の教科書にも所収されてはいます。
ただし、授業でとりあげるかどうかは、担当の先生によりますね。
通常は『今昔物語』や『宇治拾遺物語』などの、説話文学から始めるパターンが普通です。
内容的にも親近感があり、扱いやすいからです。
ぼくの場合、古代の作品は、ほとんど扱ったことがありませんでした。
きちんと学びの時間をとっておくべきだった、と最近反省しています。
古事記は現存する日本最古の書物です。
和銅5年(712年)、天武天皇の命で稗田阿礼(ひえだのあれ)が記憶していた『帝紀』と『旧辞』を太安万侶(おおのやすまろ)が書き記し、編纂したものです。
文体は漢文ですが、古代の伝承を多く含んでいます。
8年後の養老4年(720年)に編纂された『日本書紀』とともに神代から上古までを記した歴史書として扱われ、「記紀」と呼ばれています。
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和歌の母体となった古代歌謡や、神話・伝説などの素材や記録を取り込んでいるのです。
『古事記』を読むと、美しい言葉にたくさん出会えます。
それだけでも、文学の源流を探る上での貴重な体験になりますね。
記紀神話によると倭建命は、第十二代天皇である景行天皇の皇子とされています。
皇子・倭建命が兄を殺害したことで、天皇はその力を深く恐れました。
なるべく自身から遠ざけるために、西方の国の討伐に向かわせたのです。
彼は大変に優れていたため、討伐に成功しました。
それに続けて東征をも命じられます。
倭建命は倭の国を離れたくありませんでした。
「父は私に死んでほしいと思っているのか」と悩みます。
そんな複雑な心境の中、連戦連勝を重ねついに東国を平定するのです。
彼は大和に帰る途中、尾張の美夜受比売(みやずひめ)という女性と一緒になります。
その夜、伊吹山の神を素手で討ち取ろうといい、剣を置いて出かけたものの、反対に神に打ち負かされて病になってしまいました。
歩くのが困難な状態になりながらも、故郷を目指し、尾張から伊勢へと向かったのです。
その部分を読んでみましょう。
本文
そこより出でまして、三重の村に至りし時に、また詔り給ひしく、「我が足は三重に曲がれるがごとくして、はなはだ疲れたり」と詔り給ひき。
故、そこを名づけて、三重といふ。
そこより出でまして、能煩野(のぼの)に至りし時に、国を偲ひて、歌ひて言はく、
倭(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば たたなづく 青垣(あをかき) 山籠(やまごも)れる 倭し麗(うるは)し
また歌ひて言はく
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命の 全(また)けむ人は たたみこも 平群(へぐり)の山の 熊樫(くまがし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子
この歌は、国偲ひ歌ぞ、また、歌ひて言はく、
はしけやし 我家の方よ 雲居立ち来も
これは片歌ぞ。
この時に、御病、いとにはかなり。
しかして、御歌に言はく、
乙女の 床の辺に わが置きし 剣の太刀 その太刀はや
歌ひ終はりて、すなはち、崩(さ)りましき。
辞世の歌
辞世の歌の中で最も有名なのは、病中の倭建命が、臨終の間際に詠んだこの一首です。
倭(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば たたなづく 青垣(あをかき) 山籠(やまごも)れる 倭し麗(うるは)し
この歌をぜひ暗記してください。
美しい言葉の積み重ねがみごとです。
倭はこの国のまほろば(もっともすぐれた場所)であり、青垣の家が重なり山々に囲まれている、美しき倭の国よ、というのがその意味です。
「あをによし」といえば「奈良の都」がすぐに出てきますね。
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奈良の枕詞です。
青丹の産地であった倭は家々の垣が青く塗られ、とても美しい土地だったのです。
倭建命の眼によみがえるのは、その美しき故郷の風景でした。
「まほろば」という表現を聞いたことがないという人もあるかもしれません。
本当にみごとな言葉ですね。
大和は国の中で一番良いところですという意味が、この「まほろば」という表現にこもっています。
漢字で書くと「真秀」(まほ)です。
名詞や形容動詞として使われます。
真秀なりといった使い方をします。
よく整って十分なことを意味するのです。
反対の意味は偏(かたほ)です。
幾重にもかさなりあった垣根のような山に囲まれた大和は、本当に美しく立派なところだという感嘆の響きが、表現の端々から伝わってきますね。
倭建命の魂は亡くなった後、白鳥に姿を変え、倭へ向けて飛んで行ったといわれてます。
後世の人たちはどうしても、彼を故郷へ帰してあげたかったのでしょう。
大和の風景はそこへ行った人にしか、理解できないところがあります。
奈良盆地と大和三山、背後にある大神(おおみわ)神社、三輪山の凛々しい姿をみると、なるほど、大和は最も美しいところだと実感できます。
とくに大和三山にのぼって、盆地の風景を眺めることをお勧めします。
この歌は辞世の句のなかでも、最も秀逸なものの1つといえるでしょう。
故郷に至らず
倭建命はなぜ故郷まで帰れずに、亡くなってしまったのでしょうか。
元々は伊吹山に住む神を退治する目的で出兵したのです。
しかし神を侮り、「素手で倒してやる」と言って、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を妻の元に置いてきてしまいました。
伊吹山に着いた時、山辺で一頭の白い猪に遭遇します。
実はこの白い猪こそ、神そのものだったのです。
神の怒りは猛烈な氷雨となって、降りかかりました。
草薙剣を持ってさえいれば、助かったのかもしれません。
ちょっとした油断が、結局は命を縮めてしまったのです。
2首目の歌の意味は、まだ命あるものは平群山にある、大きな樫の葉を魔除けかんざしとして挿せ。皆よというものです。
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3首目は、ああ、なつかしい。我が家の方角から雲が立ちのぼっているではないかと詠みます
最後に4首目では妻の寝床に置いてきた草薙剣よ。その太刀よ。と呟くのです。
3首目は古事記に「こは片歌なり」と示してありますね。
片歌とはは五・七・七の形式で詠まれる詩のことです。
片歌2首があわさると、旋頭歌とよばれる形式の歌になるのです。
大和朝廷が三輪の地にあった4・5世紀頃は、日本列島の各地には朝廷の権力に服さない豪族がたくさんいました。
特に強大だったのが東国の蝦夷(えみし)・九州の熊襲(くまそ)だったのです。
その征伐を倭建命はしたのです。
父親の景行天皇の心はどのようなものであったのでしょう。
それを知りながら、出征した倭建命はどんな気持ちだったのか。
古事記の世界を読み込んでいくと、興味深い歴史の中に引き込まれていきます。
自分でぜひ、この先を読んでみてください。
今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。