水は方円の器に従う
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師のすい喬です。
今回はかつて授業をした教材の中から評論を1つ紹介します。
タイトルは『水の東西』です。
何度やりましたかね。
どこの会社の教科書にも載っていました。
まさにドル箱の教材です。
筆者は山崎正和。
つい先ごろなくなりました。
評論も書きましたが、劇作家でした。
代表作は『世阿弥』。
あの能楽を大成した世阿弥の執念を描いた傑作です。
ぼくも2度見ました。
忘れられません。
今年は彼の評論が入試にもたくさん出題されるでしょうね。
著作の中で「水の東西」は1年の国語に多く所収されていました。
入門編としては誠に恰好の教材だったのです。
覚えていますか。
ちょっと最初のところだけをご紹介しましょう。
懐かしい人もいるはずです。
本文(部分)
「鹿おどし」が動いているのを見ると、その愛嬌の中に、なんとなく人生の気だるさのようなものを感じることがある。
かわいらしい竹のシーソーの一端に水受けが付いていて、それに筧の水が少しずつたまる。
静かに緊張が高まりながら、やがて水受けがいっぱいになると、シーソーはぐらりと傾いて水をこぼす。
緊張が一気に解けて水受けが跳ね上がるとき、竹が石をたたいて、こおんと、くぐもった優しい音を立てるのである。
見ていると、単純な、緩やかなリズムが、無限にいつまでも繰り返される。
緊張が高まり、それが一気にほどけ、しかし何事も起こらない徒労がまた一から始められる。
ただ、曇った音響が時を刻んで、庭の静寂と時間の長さをいやが上にも引き立てるだけである。
水の流れなのか、時の流れなのか、「鹿おどし」は我々に流れるものを感じさせる。
それをせき止め、刻むことによって、この仕掛けはかえって流れてやまないものの存在を強調していると言える。(中略)
そう言えばヨーロッパでもアメリカでも、町の広場には至る所に見事な噴水があった。
ちょっと名のある庭園に行けば、噴水は様々な趣向を凝らして風景の中心になっている。
有名なローマ郊外のエステ家の別荘など、何百という噴水の群れが庭をぎっしりと埋め尽くしていた。
樹木も草花もここでは添え物にすぎず、壮大な水の造型がとどろきながら林立しているのに私は息をのんだ。(中略)
そういうことをふと考えさせるほど、日本の伝統の中に噴水というものは少ない。
せせらぎを作り、滝を懸け、池を掘って水を見ることはあれほど好んだ日本人が、噴水の美だけは近代に至るまで忘れていた。
伝統は恐ろしいもので現代の都会でも、日本の噴水はやはり西洋のものほど美しくない。
そのせいか東京でも大阪でも、町の広場はどことなく間が抜けて、表情に乏しいのである。
噴水は好きですか
日本人は噴水をあまり好まないようですね。
授業の中で自分の家の庭に余裕があったら噴水を造ってみたいかと生徒に訊いたところ、手をあげる者はいませんでした。
確かに広い敷地も必要でしょう。
しかしそれだけではありません。
なぜ日本人は噴水に親しみを感じないのでしょうか。
まさにここが日本人論のキモなのです。
「水の東西」という教材は日本人とは何かを問う評論なのです。
どんな理由だと思いますか。
少し考えてみて下さい。
結構いろいろな回答がありました。
しかしドンピシャな答えをした生徒はいませんでした。
噴水のことなんて考えたことがないからです。
確かにヨーロッパにはたくさん噴水があります。
どこの庭にいっても見事です。
あれだけ乾いた土地で水を管理する能力を持っていたということには驚きを覚えますね。
ローマ水道などというのは、それ自体が壮大なオブジェでもあるのです。
なぜ日本には噴水があまりないのか。
もちろん技術力がなかったなどというのは答えになりません。
隅田川にあの掘割をつくった技術をもってすれば、噴水くらいはなんでもありません。
理由は簡単です。
あまり好きではなかったんですね。
むしろ噴水にどこか嘘寒いものを感じていたのでしょう。
水は高いところから低いところへ流れるのが自然なのです。
日本人は自然にさからってまで、水を空高く噴き上げることに抵抗を覚えたのです。
まさに「行雲流水」の世界なのです。
よく言われることですが西欧人は自然を自分の好きなように変形します。
丸い庭も四角い庭もお好みのままです。
しかし日本人はそうした人工の匂いを非常に嫌います。
自然の中に丸や四角はないからです。
ありのままの形にこだわるというのがあくまでも日本人にとっての「美」なのでしょう。
水は高きから低きへ
かつてスペインを旅した時、アルハンブラ宮殿を見学したことがあります。
グラナダはイスラムの支配していた都です。
彼らは治水の名人でもありました。
宮殿の中を流れる水のみごとさは彼らの技術力の高さを想わせました。
四角い庭を縦横に水が細く流れるのです。
確かにその姿は可憐で美しかったですね。
しかしこれと似たような形のものを日本人が作るだろうかと考えると、それは疑問です。
やはり滝から筧を通じて庭や、鹿おどしに流れる水は、自然をそのままに模したものでなくてはいけません。
そういうものしか日本人は受け付けないのです。
無理に下から上へ水を噴き上げることには、かなりの抵抗があると考えた方がいいようです。
このことは料理にも通じます。
西洋や中国の料理に比べて、日本料理くらい素材を大切にするものはありません。
季節感は、日本料理の神髄です。
無理に味をつけることなく、素材の持つ味をいかにひきだすか。
料理人の腕はその一点にかかっています。
まさに日本人の美意識が試されているのです。
世界中で日本料理がもてはやされる理由の最大のものが、実はここにあるといってもいいでしょう。
フランス料理はソースに生命をそそぎます。
中国料理は火力が命です。
日本の料理は、一見すると何もしていないかのように見えます。
しかしそこにこそ、日本料理の原点があるのです。
手をいっさい加えていないかのように見せて、その実、たった一杯の椀にあらゆる味のエッセンスをこめます。
出汁一つだすために、どれほどのエネルギーを費やすことでしょう。
日本人の本質はその自然観によく出ているといえます。
どこまで研究しても、興味のつきない面白いテーマです。
この教材は本当にいろいろなことを考えさせるのに適したものです。
比較文化論の中に入るのかもしれません。
生徒たちは日本と西洋の庭の造型などにもこの後、興味を持ったようです。
山崎正和の業績は数知れません。
時間がありましたら、少し調べてみてください。
いろいろな気づきがあることと思います。
今回も最後までおつきあいいただき、どうもありがとうございました。