【方丈記・無常観】人間の真実を描写した鴨長明の名著は永遠に残る

行く川の流れ

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は『方丈記』を取り上げましょう。

作者は鴨長明。

高校時代に序文「行く川の流れ」を覚えさせられましたね。

比喩や対句をみごとに使った文章です。

和漢混交文と呼ばれています。

漢字で示されたところと、ひらがな表記がうまく混ぜ合わさった名文になっています。

全体を流れるキーワードは無常です。

よく「無情」と間違える人がいます。

全く違うものです。

「常なるものがない」と漢文風に読めば意味がわかるでしょうか。

変わらないように見えても変化しないものなどなく、すべては常に変化していて、やがて滅んでいくという思想です。

考えてみればすごい考え方です。

日本人にはしっくりとくる哲学の1つです。

ilyessuti / Pixabay

四季の自然がまさにこの通りだからでしょうか。

川の水が流れるのは当然としても、その水に着目して同じ場所にとどまることはけっしてないという認識は重いです。

何度読んでもその通りだなと感心させられてしまいます。

日本3大随筆の中の1冊だということも覚えておいて下さい。

本文

行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。

淀みに浮かぶうたかたかは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

世の中にある人と栖と、またかくのごとし。

玉敷きの都の内に、棟を並べ、甍を争へる、高き賤しき人の住まひは、世々を経て尽きせ
ぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。

あるいは去年焼けて今年作れり。

あるいは大家滅びて小家となる。

住む人もこれに同じ。

所も変はらず人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に僅かに一人二人なり。

朝に死に夕べに生まるる慣らひ、ただ水の泡にぞ似たりける。

知らず、生まれ死ぬる人いづ方より来りていづ方へか去る。

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また知らず仮の宿り誰がためにか心を悩まし何によりてか目を喜ばしむる。

その主と栖と無常を争ふさま、言はば朝霧の露に異ならず。

あるいは露落ちて花残れり。

残るといへども朝日に枯れぬ。

あるいは花しぼみて露なほ消えず。

消えずといへども夕べを待つことなし。

現代語訳

流れていく川の流れは絶えることがなくて、それでいてもとの水ではない。

流れの淀んでいるところに浮かぶ水の泡は、一方で消えたかと思うと、一方ではまたでき
て、いつまでもそのままの状態で存在していることはない。

このように生まれてくる人と住まいも、また、同じようなものである。

玉を敷きつめたように美しい都の中に、棟を並べ、屋根の高さを競っている身分の高い、

また低い人々の住まいは、幾世代を経てもなくならないものであるが、これらの家々が本

当に昔のままで残っているのかと調べてみると、昔あったままの家は珍しい。

ある場合は、去年火事で焼けて、今年新しく作っている。

ある場合は、大きな家が滅んで、小さな家となっている。

住んでいる人もこれと同じである。

場所も変わらず、人も大勢いるが、昔見知った人は、二、三十人の中で、わずかに一人二人である

朝に死ぬ人があるかと思うと、夕方に生まれる人があるという人の世のならわしは、全く水の泡に似ていることである。

わからない、生まれる人死ぬ人は誰のために苦心して、何のために飾り立てて目を喜ばせようとするのか。

その、家の住人と住まいとが、どちらが先に滅びるかを競っている様子は、例えて言えば朝顔と、その上に置く露との関係に同じである。

ある場合は、露が落ちて、花が残っている場合もある。

残っているといっても、朝日にあたると枯れしぼんでしまう。

ある場合は、花が先にしぼんで、露はまだ消えないでいる場合もある。

消えないでいるといっても、夕方まで消えずにいることはない。

鴨長明という人

父親は下賀茂神社の神官でした。

自分も跡がつげると思っていたのでしょう。

幼少期は恵まれた環境にいたようです。

しかし有力な後ろ盾となるはずであった父が早くに亡くなり、結局神官にはなれなかったのです。

1204年、鴨長明が50歳の頃、やっと神職につけるチャンスがめぐってきました。

ところが横槍が入ってうまくいきませんでした。

DeltaWorks / Pixabay

不運な人です。

これをきっかけについに出家。

京都の日野に小さな庵を建てます。

庵の広さが方丈(約3m)四方であったことから、長明は『方丈記』と名付ける随筆を書きました。

生活はその後も苦しかったようです。

今は下賀茂神社からほど近いところに、彼の住まいを模したものが建てられています。

興味のある方は覗いてみてはいかがでしょうか。

最近感じること

繁華街を歩いていると、店がどんどん変化していることに気づきます。

この前ここにあったのは確か焼き肉屋だと思い、ふとその時の様子が目に浮かべます。

しかしそこにあるのは全く違う名前のラーメン屋だったりします。

そのスピードの激しさはコロナ禍の影響でしょうか。

店舗の入れ替わりが例年より激しいような気がします。

潰れていく店の多いことにも本当に驚かされます。

最近では駅前のショッピングビルの中の閉店も相次いでいます。

まさか鴨長明がそこまでを読み込んでいたワケではないでしょう。

しかしこれはまぎれもない現実です。

家の様子も同じです。

近所の風景がどんどん変化していきます。

近くの大規模造成地には豪壮な家が隋分ありました。

それが30年以上たつ間に老朽化し、建て替えの時期を迎えたのです。

おそらく家族環境にも大きな変化があったのでしょう。

御主人が亡くなられ、相続対策に土地を何分割かして売り出すケースが増えました。

かつての広い敷地がいつの間にか細切れにされ、そこに3階建ての家がたっています。

若い夫婦が買い求めたのでしょうか。

子供用の小さな自転車が置いてあったりします。

近所にあった大きな旅館の跡地にも、家が立ち並びました。

同じ設計事務所が手掛けたのでしょう。

ほとんど同じ外観の家です。

まさに「大家滅びて小家となる」を目の前で見せられている気がします。

また最近、近所で亡くなる人が多いのにも驚かされます。

話を聞いた時はさすがに驚きました。

高齢だったということもありますが、ガンに罹っていたなどと聞くと、全く知らなかったことに驚きもするのです。

「朝に死に夕べに生まるる慣らひ」というのは全くその通りです。

それが水の泡だと言われてしまうと、あまりにも哀しいです。

しかし事実はその通りなんでしょう。

ぼくの周囲にいた人たちは次々とここ10年くらいの間に亡くなってしまいました。

両親、叔父叔母を含めて、残っている人は殆どいません。

生まれ死ぬる人がどこから来てどこへ行くのかは誰にもわからないのです。

まさに長明が嘆いた通りではないでしょうか。

この文章が響くのは、やはり年をとってからですね。

無常という言葉の響きがリアリティをもって迫ってきます。

古典の文章が古びないのは、そこにある真実がまさに日常の風景だからなのでしょう。

是非、読み返してもらえたら幸いです。

文庫でも全部でわずか50ページもありません。

飢饉、火事、辻風などの記述も歴史書として大変に正確なものです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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