【史記・韓信の股くぐり】大きな目的を実現するために恥辱を我慢した男

韓信の股くぐり

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は韓信という人のエピソードについて書きます。

名前を聞いたことがありますか。

有名な歴史書『史記』の中に登場する韓信という武将の話です。

どんな人なのか。

中国史に興味のある人なら、知っているかもしれません。

秦の末期から前漢初期にかけての武将です。

劉邦の元で幾多の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けました。

張良、蕭何と共に漢の3傑の1人として知られています。

紀元前206年、秦の滅亡後、韓信は項羽の下から離れます。

そして、漢中に左遷されていた漢王劉邦の元へと移ったのです。

しかしここでもいい位にはつけてもらえませんでした。

ある時、韓信は罪を犯し、同僚13名と共に斬刑に処されそうになりました。

偶然、刑場に劉邦の重臣の夏侯嬰がいたのです。

そこで韓信は「漢王はどうして天下に大業を成すことを望まないのか」と夏侯嬰に訴えました。

どこか見どころがあると思ったのでしょう。

夏侯嬰は韓信の命を救い、劉邦に推薦しました。

ところが劉邦はあまり興味を示しません。

韓信は蕭何にも会い、自らの才能を認めてもらおうとします。

しかし劉邦はやはり受け付けませんでした。

辺境ばかりを守っている漢軍からは兵士が逃亡していきます。

韓信も嫌気がさして、逃亡を図ったものの、蕭何に連れ戻されました。

劉邦への進言

この時、劉邦は蕭何までもが脱走したと考えました。

本当は韓信を連れ戻しに行ったのです。

その時の蕭何の言った言葉は大変有名です。

「なぜ韓信だけを引き留めるのか」という劉邦の問いにこう答えました。

「韓信は国士無双(他に比類ない人物)であり、他の多くの将軍とは違います。

王(劉邦)がこの漢中にずっと留まるつもりならば韓信は必要ありません。

しかし漢中を出て天下を争おうと考えるのなら韓信は不可欠です。

これを聞いた劉邦は、韓信の才を信じて全軍を指揮する上将軍に任命したといいます.

ここから劉邦軍の勢いが止まらなくなるのです。

その韓信がまだ無頼の若者だった頃の話が、この股くぐりのエピソードです。

どこかで1度くらいは会話の中に出てきてもおかしくはありません。

是非、この機会に覚えておいてください。

最初に漢文の書き下し文を載せます。

これは漢字とひらがなの混じった文です。

読みにくい表現があるので、ひらがなの注をカッコ内に入れました。

書き下し文

俛(ふ)して袴下(こか)より出(い)づ。

淮陰侯(わいいんこう)韓信(かんしん)は、淮陰の人なり。

始め布衣(ふい)為(た)りし時、貧しくして行ひ無く、推択せられて吏と為(な)るを得ず。

又生を治めて商賈(しやうこ)する能(あた)はず。

常に人に従ひて食飲を寄す。

人之を厭(いと)ふ者多し。

常(かつ)て数(しばしば)其の下郷の南昌(なんしやう)の亭長に従ひ寄食す。

数月にして、亭長の妻之を患(うれ)へ,乃(すなは)ち晨(あした)に炊(かし)ぎて蓐食(じょくしょく)す。

食時に信往(ゆ)けども、為(ため)に食を具へず。

信も亦(また)其の意を知り、怒りて竟(つひ)に絶ちて去る。

信城下に釣る。

諸母漂す。

一母有り信の飢ゑたるを見て、信に飯す。

漂を竟(を)ふるまで数十日なり。

信喜び、漂母に謂ひて曰はく、

「吾(われ)必ず以(も)つて重く母に報ゆる有らん。」と。

母怒りて曰はく、

「大丈夫(だいぢやうふ)自ら食(やしな)ふ能はず。

吾王孫を哀れみて食を進む。

豈(あ)に報いを望まんや。」と。

淮陰の屠中(とちう)の少年に信を侮る者有り。

曰はく、

「若(なんぢ)は長大にして好みて刀剣を帶ぶと雖(いへど)も、中情は怯(けふ)なるのみ。」と

之を衆辱して曰はく、

「信能(よ)く死(ころ)さば、我を刺せ。

死す能はずんば、我が袴下より出でよ。」と。

是(ここ)に於(お)いて信之を孰視(じゆくし)し、俛して袴下より出で蒲伏(ほふく)す。

一市の人皆信を笑ひ、以つて怯と為す。

(史記 淮陰侯列伝)

現代語訳

淮陰侯(わいいんこう)韓信(かんしん)は、淮陰の人です。

かつて、庶民だった頃、貧乏で行いが悪く、役人に推薦してもらうことができませんでした。

商売で生計を立てることもできず、いつも誰かにも食べさせてもらっていました。

韓信を嫌う人は大変に多かったのです。

以前はしばしば淮陰に属する郷の南昌(なんしょう)の亭長の家に居候していました。

数か月もすると、亭長の妻は韓信の面倒を見ることが苦痛に思うようになり,朝、ご飯を炊くと寝床の中で食事をとるようになりました。

食事の時間に韓信が行っても、彼のために食事の用意をしなくなっていたのです。

韓信もその意味を理解し、腹を立ててとうとう出て行ってしまいました。

韓信が町はずれで釣りをしていたときのことです。

年配の女性たちが、布を水で洗ってさらしていました。

1人の女性が、おなかをすかせている韓信を見て、彼にご飯を食べさせてくれました。

布をさらす仕事は、終わるまで数10日もかかりました。

韓信は喜び、さらす仕事をしている女性にこう言いました。

「いつか必ずおばさんに厚くお返しをしよう。」

女性は怒って言いました。

「立派な男が自分ひとりを食わせることもできていないから、私はあなたを哀れんで食事をすすめたのです。

お返しなど期待するワケがありません。」

淮陰の屠殺場で働く若者に、韓信を侮る者がいて、こう言いました。

「お前は大きな図体で、いつも刀剣を身に付けているが、臆病者に決まっている。」

男は大勢の人の前で、韓信を侮辱してこう言ったのです。

「韓信、殺す気があれば、俺を刺してみろ。殺すことができないなら、俺の股の下をくぐれ。」

そこで韓信は彼をじっと見て、腹ばいになり(彼の)股の下からはいつくばって出ました。

tony241969 / Pixabay

町中の人たちはみな韓信のことを笑って、臆病者だと決めつけたのです。

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後年、将軍として大成功を収めた韓信は、かつての若者を呼び寄せて取り立ててやりました。

「あのときは、この男を殺しても何の得にもならなかった。だから我慢したのだ。その結果、現在の私があるのだ」と言ったということです。

いかがでしょうか。

つまらない相手とは戦いをしないということです。

今の言葉でいえば、負けるが勝ちということでしょうか。

股をくぐる前に、相手をじっと見つめる韓信の視線の先には何がみえていたのか。

それを考えると、ちょっと怖ろしくなります。

孫子の兵法にもありますね。

最も強い戦い方は、戦わないということなのです。

そのためにあらゆる手を尽くす。

戦わなければ、負けることもありません。

もし戦うのなら、絶対に負けないことです。

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韓信はいくつもの戦いをしたので、逸話がたくさん残っています。

彼にまつわる故事成語としては、ほかに「背水の陣」「敗軍の将は兵を語らず」などもあります。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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