分節化
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回はことばの本質を掘り下げてみましょう。
出典は哲学史家、熊野純彦氏の評論です。
この文章は、小論文の課題文としても有効です。
良質な問題になります。
解答するのにかなり時間がかかるのではないでしょうか。
深く考え始めると、容易なことでは筆が進まなくなる予感がします。
物事を区別するとき、私たちは言語を用いますね。
言葉は世界を切り分けていくときの大切な手段です。
しかし日本語の「米」を英語で「rice」と呼ぶように、言語によってモノを表す言葉は異なります。
水とお湯も英語ではたった1つのことば、「water」ですんでしまいます。
同じように「米」「稲」「ごはん」も全て「rice」です。
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言語の体系によってことばがあらわす範囲は異なるのです。
文化の違いが、自ずと認識の形をかえているのです。
あるいは認識力の違いが、ことばの体系を別のものにしているといった方がいいのかもしれません。
本当のところはどちらが先なのか、よくわかりません。
「何をどう呼ぶか」という言葉による対象の切り分けを「分節化」と呼んでいます。
それぞれの社会や文化などによって微妙に異なるので、興味深いともいえますね。
しかし同時に悩ましい現象です。
とはいえ、生きている限り、なんとかして世界を認識しなければなりません。
言葉は認識の手段
「世界」という混沌とした無定形の存在を、それぞれの文化が持つ言語が分節化しなくてはならないのです。
その結果、はじめて私たちは事物を認識することができるようになるワケです。
問題はことばの分節化の作業の時におこる事象です。
ある種の感情のように「言語化できないことば」があるのです。
しかし世界を認識するためにはなんとかしなくてはなりません。
そこでこぼれおちるものが実は、生きていくために最も大切な場合が多いのです。
ソシュールという言語学者を御存知ですか。
有名な人ですね。
彼によれば、世界とはそのままでは人にとって認識不能な形のない混沌なのです。
まさにカオスと呼べる空間です。
それを理解可能ないくつかの要素に切り分けるものが言語です。
世界が最初から存在していたのではなく、言葉による分節、意味付けによって人が認識できるようになっていきます。
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赤ん坊が、1つ1つのものに、名前をつけておぼえていくようなものです。
しかしことばで自然を表し尽くすことができるものでしょうか。
すべてのことがらに名称をつけ、その状態を表す言葉を探しだすのは、無理でしょう。
それほどに世界は混沌としていますからね。
ことばが存在しない世界でも,葉のみずみずしさや森の沈黙は存在するのか。
難しい問いです。
存在するという人と、そうでないという人に分かれるでしょうね。
さまざまな自然の音は人間に対して現れているはずだと考えることもできます。
それは不可能だと考えることもできます。
言語にならない思い,ことばに映しとりがたい感情といったものは,ことばの後に生まれてくるものなのでしょうか。
言語が境界を設定したとしましょう。
その瞬間、「ことばにならない」とされるものが生まれます。
筆者の評論を読んでみましょう。
本文
ことばは、人を傷つける。
ときに、深く傷つける。
人はほんの一言のことばで、相手に回復不可能なほどの傷を負わせることができる。
他人のなにげないことばに傷ついたとき、人はむしろことばの鋭利な働きを呪うことだろう。
他者を傷つければ、やがては自分もなにほどかは傷を負うものなのだから、だれかをことばで傷つけてしまったときにも、ことばという道具を扱いかねる思いに、人は囚われることになる。
ことばはまた、ときにひどく無力である。
いま、目のまえで海のなかに沈んでゆく夕陽を、刻々と色あいを変える雲のすがた、日を迎えいれて、煌めき波立つ海のおもてを、ことばで語りつくすことができるだろうか。
つぎの日もまた昇ってくる太陽に照らしだされ、朝の街を吹きぬける風に揺らめいて、ほんのいっときもおなじ彩りをとどめることのない、葉のみどりに追いついて、それを描きつくすことばなど、およそ考えることが可能だろうか。
ことばが存在しない世界、人間が存在しない風景、手つかずの自然といったものをかりに考えてみよう。
そこでも葉のみどりが日の光に みずみずしく照り映え、森はおごそかに沈黙し、岩はごつごつした肌を見せ、石はすべらかな表面をさらし、吹きぬける風が、大地のおもてに音もなく砂ぼこりを立て、海の表面を波だてて、海鳴りをも呼ぶことだろう。
そうした風景は、地上に人類が登場し、ことばを口にして、ことばによって世界を切りとりはじめる。
その以前から変わることなく存在しており、やがてはことばを使用するすべての存在者が死滅するそのあとにも、それでも変わらず存在しつづけることだろう。(中略)
言語にならない思い、ことばに映しとりがたい感情といったものは、むしろ、ことばの「あと」に生まれてくる。
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言語が世界を切り分ける刃は、鋭利なナイフというよりもむしろ、ごつごつと粗っぽい大鉈にちかい。
ことばの編み目からは、あまりに多くの微細な差異が抜けおちて、こぼれ落ちてしまう。
感情をかたどる語の種類は、驚くほどに数すくなく、それが描きとるものは、感情そのものの揺れ動きにくらべて、きわめて肌理が粗いことだろう。
そうであるにせよ、ことばにならない思いが「先ず」あって、そののちに言語的な表現に突きあたり、あるいは捜しもとめられるのでは、おそらくはない。
ひとはかえって、言語を手にし、言語のなかで生き、言語の内部に封じこめられて、言語そのものに棲みつき、言語を生きていったその果てに、ときに避けがたく「ことばにはならない」無数のものごとに突きあたるものと思われる。(中略)
そのかぎりでは、ことばになるもの、ことばにならないもののいっさいをふくめて、ことばがある意味では「すべて」である。
そのかぎりではまた、言語によって明晰になるもの、言語が明確にしたのちになお残りつづけるもののいっさいをはらんで、言語こそが「いっさい」の可能性を言語以前的とされるもの・ことのすべてを含めていっさいが立ちあらわれる「可能性」を準備する。
言葉と現実
この文章を読んで、あなたが考えたことを800字以内で自由に書きなさい、という問題が出たら、どうしますか。
どこに視点を置いて書きますか。
言葉の問題は複雑です。
事象があってことばがそこに生まれるのか。
その反対にことばがあって、事象が認識されるのか。
これは永遠のテーマだとも言えます。
![](https://suikyoblog.com/wp-content/uploads/2019/06/57e7d6444251aa14ea898675c6203f78083edbe3575279487c2d7c_640_面白い.jpg)
あなた自身の考え方を示してください。
認識とことばの問題は哲学の基本です。
新約聖書「ヨハネによる福音書」の冒頭には、「はじめに言葉ありき」と書かれています。
これは言葉があったから、世界が創り上げられたという意味なのでしょうか。
それとも創世は、神の言葉(ロゴス)からはじまったという意味なのか。
言葉はすなわち神であり、この世界の根源として神が存在するという内容ともとれます。
言語が明確にするもの,明確にせず残るものとはなんであるのか。
考えてみてください。
いずれにしても全てをはらむ可能性を与えるのが、言語だということは間違いがないのです。
今回も最後までお読みくださり、ありがとうございました。