【小論文・身体論】からだは誰のものかという問いから哲学の深淵を覗く

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みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

小論文を書く時の基本は課題文を要約して、その内容を整理することです。

国語力そのものをフルに駆使して筆者の論点を探るのです。

その時にポイントとなるのがキーワードです。

これを掴まえられれば、かなり論点に肉薄できます。

今回は身体論の問題をとりあげましょう。

つまり自分の身体は誰のものかというテーマです。

今日の医学の発達はどのような思想に裏打ちされているのでしょうか。

「身体」は「物質」のひとつであるという考え方がその基本です。

近代医学は、病気を身体組織のトラブルと考えます。

そこで治療するとは手術や薬物の投与によって、障害を取り除くことであると考えるようになったのです。

移植手術などというのはまさにサイボーグの思想ですね。

わかりやすくいえば、人間の身体を機械と考えるのです。

一部分が悪くなれば、その部品を他のものと取り替える。

なるべく機能的にも優れたものであればいうことはありません。

臓器移植などもまさにそうですね。

悪いものを捨て、良質なものと取り替える。

骨がダメなら、新しい人工関節を入れる。

血管が細くなって血液の流れが悪くなれば、そこに太く広がるステントと呼ばれる部品を埋めこむ。

多くの病気が近代の医学では交換可能なものと認識されています。

もちろん、免疫の拒否反応もあります。

それを避けるために同じ個体の中で増殖された細胞を、移植するという技術も発展してきました。

IPS細胞と呼ばれるものは、まさにそのいい例です。

心と身体の関係

こうした近代医学の発展に疑問がもたれるとしたら、それは何でしょう。

心の問題です。

精神分析医、フロイトの論じた意識の問題は、人間を機械と同じとは考えませんでした

心と身体がいかに密接な関係にあるのかということを明確にしたのです。

近年は複雑な環境に置かれ、心を病む人が多発しています。

心の病が、身体の不調と深くリンクしていることが明らかになりつつあります。

神経症や心身症、自律神経失調症のような病気は、増加するばかりです。

心を置き去りにして薬だけを投与しても回復しないケースも多々あります。

すなわち、人間と精神を切り離して考える「二元論」は成立しえないのが明らかになりつつあるのです。

「身体」はもう「物質」ではないとする考え方が、今は主流です。

医学の方向も人間を部品化して修復するというだけではもう、まかなえなくなっています。

漢方の考え方や瞑想などを通じて、自分の肉体をより深いところから変革していくという流れになりつつあるのです。

過去に出された身体論に関する課題文をここで取り上げてみましょう。

出典は中村雄二郎著『哲学の現在』です。

この本は哲学を非常にわかりやすく噛み砕いたという評判の入門書です。

入試の問題にふさわしい文章です。

課題文

近代生理学や 近代医学を生み出し発展させてきたのは、なんといっても身体に対する機械論的な考え方である。

そして、近年では次第にそれへの批判と反省が高まってきてはいるものの、今なおその支配力は失われてはいない。

現在、医学の最先端で行われている内臓器官の接続切除や移植のようなものは言うまでもない。

が、そこまでいかなくとも、多くの合成された薬の投薬、注射、輸血などのようなごく一般的な利用方法を考えてみてもわかる。

もちろん、今言ったような意味での機械論的な身体観は、それだけ独立してあるのではない。

思考する精神と広がりを持った物体という存在の二元論は、その展開として、観察し認識する主観と、観察され認識される対象という認識の二元論をもたらし、全てこの世の中のものは、ここに主観と対象に二分されるようになった。

そのような全体の枠組みの中では、当然のことながら、物体そのものとしては身体は対象の側に入れられ、もっぱら見られる対象として扱われる。

医学の、医者の立場がそうであるだけでなく、私たち一人一人が、自分の体を、身体をそのようなものとして見るまなざしを、知らず知らずに身につけてしまう。

しかしながら、私にとって自分の体はそのようなものとして収まりきるであろうか。

ただ見られるものにとどまるであろうか。

我が身を振り返ればすぐわかるように、むろんそんなことはありえない。

ありうるはずもない。

観察と認識の中で中心をなす見ることを例にとってみても、見ることは意識の働きだけによるのではなく、目に、つまり身体によらなければならないからである。

同じことは、聞くことと耳、触ることと手についても、更に知覚の全体と体の全体についても言える。

私にとって自分の身体は、決して自分と別のもの、偶然的なものではない。

それは何よりも、意識の働きの、つまり主観の、意志の働きの、つまり主体の基礎をなしているのである。

設問は、この課題文を読み、あなたは自分の身体をどのようなものとして見ているのかを書きなさいというものです。

ここで問題にしている「身体は誰のものか」という視点を考察しなさいという問題なのです。

機械論的な考え方

ポイントは筆者の論点をおさえることです。

どこがキーワードなのかをマークしましょう。

筆者の立場がわかれば、それに対する賛否も可能です。

最初のところで、筆者が何についてどのように判断しているのかを、まずチェックしましょう。

「身体」に対する機械論的な考え方をどう論じているのか。

筆者は今もなお、支配的だと言っています。

医学の立場もそうだし、いつも見られる対象として考えがちであるという論点です。

しかしその後の段落では、問題提起に対する反論もきちんと用意されています。

今日では単に見られるものではなく、主観、主体の基盤をなしているとも言っています。

かつて支配的だった機械論的な身体観を今や突き抜けているというのです。

最後のところにあるように、自分の身体は決して自分とは別のもの、偶然のものではなくなっていると書いています。

つまり主観を持った意志の働きの結果として、そこにあるということなのです。

そうなると、科学技術や医学の発達を単にすばらしいことと受け止めるだけでなく、そこに自分の意志を働かせる要素が多く出現したということになります。

それだけ主体性が前面に出たということなのです。

この点についての賛否を論じれば、ある程度の文章が書けるでしょう。

筆者の論点をYesとして追いかけるか、それともやはり現代の医学が進む方向に追随すべきか。

その修正点があるとすれば、それはどこなのか。

どうしても私たちは通念で内容を理解をしてしまいがちです。

それを乗り越えるためには、自分なりのキーワードを作り出すか、選択するしかありません

ここが実力の見せ場です。

デカルト的二元論だけではもうやっていけなくなった現実を、うまく取り込むには思考する精神という表現と、広がりを持った物体という言葉が必要でしょう。

自分の身体は、決して自分と別のもの、偶然的なものではないとする論点も有効です。

身体が今日では主体の基盤をなしつつあるという方向にもっていくのが、1つの形になると思われます。

自分の経験があれば、それを有効に挟み込むこともさらに可能になります。

重いテーマです。

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じっくりと考察してみてください。

今回も最後までおつきあいいただきありがとうございました。

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