【現代の価値観】「私」の消えた欲望には主体がなく始まりも終わりもない

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欲望という概念

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は作家・高村薫氏の文章を考えてみます。

タイトルは『「私」消え、止まらぬ連鎖』です。

あなたは彼女の小説を読んだことがありますか。

『マークスの山』で1993年、直木賞を受賞しました。

とにかくねっとりとした作品です。

合宿に持っていき、ずっと読みふけった記憶があります。

警察の内部抗争に関わる人間ドラマが中心です。

捜査一課同士の対立、同僚との対立などがものすごい熱量で書かれています。

その後、何作か読みました。

『照柿』が印象的でした。

こういうタイプの作家がいるのだというのが、その時の第1印象です。

彼女の言葉に「欲望は私の外部で回転し、そこに明確な主体はない」というのがあります。

今回の記事のメインテーマです。

これを小論文の問題にしたらどうか、とふと考えました。

あまりにも難しすぎるかもしれません。

「欲望」というのは意味の深い言葉ですね。

この表現が何を主張しようとしているのか、わかりますか。

現代を短い警句で描写しているのです。

この言葉の内側には、今を生きる人間そのものが示されているような気がします。

人はある意味、欲望の広野を歩いているのかもしれません。

生まれてから死ぬまで、何かになりたいとか、何かを所有したいとか、様々な願いを持っています。

しかし1番厄介なのは、欲望がひとつかなえられた途端、すぐに次の欲望が頭をもたげてくることです。

転覆事故と耐震偽装

これは人間の持つ、基本的な体質なのかもしれません。

それを否定することはできないのです。

ここで問題なのが、まさに現代のそのものの持つ体質です。

個々の欲望は、そのほとんどが損得に置き換えられてしまうようになりました。

極論すれば、金銭の額に換算されがちなことです。

その損得がまた外部化され、新しい欲望になるという構図になっています。

20年ほど前、鉄道の転覆事故とマンションの耐震構造偽装事件が重なっておこりました。

2005年4月、宝塚発JR東西線が高速で脱線した事故を覚えていますか。

脱線したうち前の4両が線路から逸脱し、先頭の2両は線路脇のマンションに激突しました。

乗客と運転士合わせて107名が死亡し、562名が負傷した大事故です。

決まった時間に早く同じ場所にたどり着きたいという多くの人々の欲望が、鉄道会社をせきたてました。

そのためダイヤをより密に書き換え、運転手は少しの遅れをカバーするために、無理に速度をあげたのです。

結果として、取り返しのつかないことになりました。

あるいは安い価格で広いマンションが欲しいとなれば、どこかで必要な作業を省かなくてはならないのが道理です。

鉄道事故のあった2005年、千葉県にある建築設計事務所がマンションの構造計算書を、偽造したという事件がありました。

震度5強の地震でも倒壊する恐れがあるというレベルでした。

購入したばかりのマンションは建て替えを余儀なくされたのです。

この事件以来、取り締まりがより厳しくなりました。

自動車の安全装置

自動車の安全についても同様ですね。

ダイハツの事件は、つい先日報道されたばかりですから、誰もがよく知っているはずです。

とにかく検査を無事に早く通したい。

ミスをすることで、全てのラインが止まってしまうのだけは避けたい。

結論は検査記録を改ざんするしかなかったのです。

担当者は偽装された検査結果でパスすることを考えました。

誰がいけなかったのでしょうか。

改ざん発覚の後、会社の体質を指摘する報道が目立ちました。

しかし生産する側だけ問題があるワケではありません。

裏側には、消費者もしっかりこびりついているのです。

早く格安に良質な新車を手に入れたいという願望が、そこにはあります。

ここまでくると、誰もがある意味で犯罪に手を貸しているという図式も見えてきますね。

誰が悪いのか、よくわからないのです。

欲望が金銭で代替できないことを薄々知りながら、皆が価格でその総量を知ろうとするのです。

儲けがあれば嬉しく、損失が多ければくやしいというのが現実です。

その結果、短時間で効率よく金銭を手に入れられる手段を得た人間を、マスコミは賞賛するようになりました。

しかし彼らの持つ、本来の「欲望」が何であるのかについては依然不問のままなのです。

高層の広い住まいに、大型テレビ、高級車があれば、人は幸福になれるのかという根本の疑念はすべて捨て去られ、外から見える「欲望」にだけ、課題が収斂されることになりました。

筆者の文章を読んでみましょう。

キーワードをチェックしながら、読み解いてください。

本文

例えばある欲望をもった時、私たちはそれをかなえようとする。

その段階で、私たちはなにがしかの手段に訴えねばならず、そのために対外的な意味や目的への、欲望の読み替えが行われる。

健康のため。家族のため。生活の必要のため、などなど。

こうした読み替えは、すなわち欲望の外部化であり、欲望は、この高度な消費社会では「私」から離れて、つくられるものになってゆく。

そこでは名声や幸福といった抽象的な欲望さえ、目と耳に訴える情報に外部化され、置換されるのが普遍的な光景である。

例えば、家が欲しい「私」は、ぴかぴかの空間や家族の笑顔の映像に置換された新築マンションの広告に見入る。

そこにいるのは美しい映像情報に見入る「私」であり、家族の笑顔を脳に定着させる「私」であって、単に家が欲しい漠とした「私」はずっと後ろに退いている。

かわりに、家族の笑顔を見たい「私」が前面に現れ、それは映像の中の新築マンションと結びついて、欲望は具体的なかたちになるわけである。

けれども、こうしてかたちになった欲望は、本当に「私」の欲望か。

geralt / Pixabay

「私」は確かに家が欲しかったのだけれども、その欲望はまさしくこういうかたちをしていたのか。

仮に確かに家族の笑顔を見たいがために家が欲しかったのだとしても、家という欲望と、家族の笑顔という欲望は本来別物であり、これを1つにしたのは「私」ではない。

広告である。

このように消費者と名付けられたときから「私」は誰かがつくりだした欲望のサイクルに取り込まれている。

そこでは「私」は覆い隠され、ただ大量の情報に目と耳を奪われて思考を停止した、「私」ではない何者かが闊歩している。(中略)

「私」の欲望であれば、失意も損失も「私」が引き受けることで収まりがつくが、「私」の消えた現代の欲望は、始まりも終わりもない。

破綻したら破綻したで、ともかく悪者を探して社会的な辻褄を合わせるだけである。

一方、消費者という名の「私」はどこまでも無垢にとどまるのだが、「私」が無垢でないことは、「私」が知っている。

無垢でない私

どこまで犯人捜しをしても、意味を持ちません。

その内側にべったりと「私」が張り付いているからです。

一見、自分には全く無縁のことと思っていると、とんでもないしっぺ返しがあります。

「私」の欲望は本来どのようなものだったのでしょうか。

現代の構造が、みごとなまでに大衆宣伝の波の中に消えてしまいました。

何が求めるものであったのかさえ、わからなくなりつつあるのです。

「欲しいものが欲しい」とかつてあるコピーライターは広告のコピーに書きました。

もうその時点で、「欲しいもの」が見えなくなっていたのです。

それでも消費を促され、何かを求めなくては生きていることの実感さえ、得られなくなりつつあります。

どうしたらいいのか。

その答は干からびてしまった「私」に聞くしかないのでしょう。

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主体がなくなってしまった「私」にとって、それがいかに難しいことであるのかを同時に実感しなくてはならないのです。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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