【徒然草・54段】必要以上に小細工すると結果は予想より惨めになるのです

仁和寺の話

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は古文の随筆を扱います。

徒然草には面白い話がいくつもありますね。

以前、つい笑ってしまうようなのをいくつか記事にしました。

兼好法師は仁和寺(にんなじ)にことのほか、愛着を感じていたようです。

実際に訪ねてみるとわかりますが、本当に大きな寺院です。

兼好法師が住んでいた庵は、このお寺の近くにありました。

仁和寺は仁和4年(888)に宇多天皇により完成した勅願寺です。

皇子・皇孫が門跡を務めたことから門跡寺院の筆頭とされて「御室御所」と呼ばれました。

御室桜(おむろざくら)という名前を聞いたことがあるでしょうか。

大変有名ですね。

はなびらの大きな遅咲きの桜です。

兼好法師はこのお寺を何度も訪れていたのでしょう。

ひょっとすると、ここの僧たちの中に知り合いがいたのかもしれません。

『徒然草』の中には、仁和寺に関わる人々の愉快な話がいくつも収められているのです。

よほど、噂話に敏感だったのかもしれません。

僧侶と稚児

『徒然草』の中には、僧侶と稚児の話がいくつか見られます。

平安時代以後、稚児というのはかなり特殊な存在でした。

大きな寺院では、12~18歳頃の髪をそり落とさない少年修行僧がかなりいました。

稚児(ちご)と呼ばれていたのです。

皇族や貴族は自分の子息を、教養や礼儀作法を習うために修行に出しました。

最も格式の高い上流の稚児です。

しかしそれが全てではありません。

僧侶の世話をする利発な少年や、楽器や舞などの担当をする子供などもいたのです。

寺は女人禁制なので、僧侶と稚児は男色関係に至る場合もあったようです。

Kyoto, Japan – December 4, 2016: Buddhist monk walking through Tsutenkyou(bridge)at Tofukuji temple in Kyoto Japan.

それだけに多くの稚児がいたと想像されます。

いろいろな噂が外にもれることもあったのでしょう。

その中にはかなり笑えるものもありました。

数ある話の中では頭から鼎をかぶって抜けなくなった稚児の話が、もっとも愉快ですね。

以前、記事にしました。

リンクを貼っておきます。

今回のは少し教訓臭のする話ですが、これも愉快ですね。

少し読んでいきましょう。

難しい単語があるので、説明を文末に書いておきます。

本文

御室に、いみじき児(ちご)のありけるを、いかでさそひ出(いだ)して遊ばんとたくむ法師どもありて、能あるあそび法師どもなどかたらひて、

風流の破子(わりご)やうのもの、ねんごろに営み出でて、箱風情の物にしたため入れて、双(ならび)の岡の便よき所に埋みおきて、

紅葉散らしかけなど、思ひよらぬさまして、御所へ参りて、児(ちご)をそそのかし出でにけり。

うれしと思ひて、ここかしこ遊びめぐりて、ありつる苔のむしろに並(な)みゐて、「いたうこそこうじにたれ」、

「あはれ紅葉をたかん人もがな」、「験(げん)あらん僧達、祈り試みられよ」など言ひしろひて、

埋みつる木のもとに向きて、数珠(ずず)おしすり、印ことごとしく結び出でなどして、いらなくふるまひて、木の葉をかきのけたれど、つやつや物も見えず。

所の違ひたるにやとて、掘らぬ所もなく山をあされどもなかりけり。

埋みけるを人の見おきて、御所へまゐりたる間(ま)に盗めるなりけり。

法師ども、言の葉なくて、聞きにくくいさかひ、腹立ちて帰りにけり。

あまりに興あらんとする事は、必ずあいなきものなり。

「注」

破子(わりご) 中に仕切りのある弁当箱

双の岡 仁和寺の南にある丘。

御所 仁和寺の中の法親王の御所

現代語訳

仁和寺の住職のところに、とても可愛い稚児がいました。

どうにか誘惑して、この稚児と一緒に遊びたいと思う法師もいたのです。

彼等は、芸好きの者を丸め込んで仲間にしました。

愛らしい弁当箱を特別に作らせて、汚れないように箱にしまい、仁和寺の南にある双の岡の都合のいい場所に埋めて、紅葉を散りかけ、わからないようにしておきました。

それから寺へ戻り、稚児をうまく連れ出したのです。

その日は稚児と遊びながらあちこちへ連れ回しました。

丘に登り苔むす地面に皆で座って「とても疲れた」とか「誰か、紅葉を焚いてくれないか」とか「試しに霊験あらたかなところを見せてくれないか」などと言い合いました。

するとある法師が、弁当箱を埋めた木の根に向かい数珠を持ち、物々しく両手で印を結んだのです。

いかにもそれらしい演技をしながら紅葉をかき払ったものの、そこには何もありません。

「場所が違ったか」と思い、掘らないところがないほど山を掘り返したものの、とうとう隠したはずの弁当箱は見つかりませんでした。

実は埋めているところを人に見られ、盗られてしまっていたのです。

法師たちは、その場を取り繕う言葉も失って、年甲斐もなく口喧嘩をし、最後は腹を立てて帰るしかありませんでした。

必要以上に小細工すると、結果はいつもこんなものです。

なにごとも自然体が大事ですね。

気の向くまま

徒然草は、兼好法師が筆のおもむくままに書いた随筆です。

当時の日常生活の様子がよくわかります。

今でも読んで新鮮なのは、内容が自然体だったからでしょうね。

亡くなった後は、本当に忘れられた存在だったのです。

それが250年もたった江戸時代に再び、復活しました。

有名な話では、高杉晋作が命を狙われているというので、船頭の恰好をして大坂の市中をぶらついていた時のことです。

心斎橋筋のある本屋に立ち寄って、徒然草はないかと尋ねました。

帳場に坐っていた主人は、船頭が徒然草を読むとは、と不審に思ったそうです。

高杉はとっさに近所にいる老人がおもしろい話をしてくれるが、そのネタ本が徒然草というものに出ていると聞いたのでねと返し、逃げたということです。

今とは出版事情が全く違います。

それなのに、多くの人が読んでいたというのがすごいですね。

今は、人生の指針になる本でしょうか。

悩みごとがあったら、この本を読みなさいという人が多いようです。

それだけ、兼好法師は世の中を達観していたのでしょう。

人生が無常だということを身にしみて感じていたという事実は、やはり重いです。

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ぜひ手にとって読んでみてください。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

【徒然草53段・仁和寺の法師】中世における滑稽話の最高傑作
徒然草53段に出てくる仁和寺の法師の話は実に滑稽です。酒の席で調子にのりついそばにあった鼎を頭からかぶってしまいます。それが抜けなくなって大変なことになったのです。最後は耳がちぎれてもいいから抜けということでした。笑い話ではすまされませんね。

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