仁和寺の話
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は古文の随筆を扱います。
徒然草には面白い話がいくつもありますね。
以前、つい笑ってしまうようなのをいくつか記事にしました。
兼好法師は仁和寺(にんなじ)にことのほか、愛着を感じていたようです。
実際に訪ねてみるとわかりますが、本当に大きな寺院です。
兼好法師が住んでいた庵は、このお寺の近くにありました。
仁和寺は仁和4年(888)に宇多天皇により完成した勅願寺です。
皇子・皇孫が門跡を務めたことから門跡寺院の筆頭とされて「御室御所」と呼ばれました。
御室桜(おむろざくら)という名前を聞いたことがあるでしょうか。
大変有名ですね。
はなびらの大きな遅咲きの桜です。
兼好法師はこのお寺を何度も訪れていたのでしょう。
ひょっとすると、ここの僧たちの中に知り合いがいたのかもしれません。
『徒然草』の中には、仁和寺に関わる人々の愉快な話がいくつも収められているのです。
よほど、噂話に敏感だったのかもしれません。
僧侶と稚児
『徒然草』の中には、僧侶と稚児の話がいくつか見られます。
平安時代以後、稚児というのはかなり特殊な存在でした。
大きな寺院では、12~18歳頃の髪をそり落とさない少年修行僧がかなりいました。
稚児(ちご)と呼ばれていたのです。
皇族や貴族は自分の子息を、教養や礼儀作法を習うために修行に出しました。
最も格式の高い上流の稚児です。
しかしそれが全てではありません。
僧侶の世話をする利発な少年や、楽器や舞などの担当をする子供などもいたのです。
寺は女人禁制なので、僧侶と稚児は男色関係に至る場合もあったようです。
それだけに多くの稚児がいたと想像されます。
いろいろな噂が外にもれることもあったのでしょう。
その中にはかなり笑えるものもありました。
数ある話の中では頭から鼎をかぶって抜けなくなった稚児の話が、もっとも愉快ですね。
以前、記事にしました。
リンクを貼っておきます。
今回のは少し教訓臭のする話ですが、これも愉快ですね。
少し読んでいきましょう。
難しい単語があるので、説明を文末に書いておきます。
本文
御室に、いみじき児(ちご)のありけるを、いかでさそひ出(いだ)して遊ばんとたくむ法師どもありて、能あるあそび法師どもなどかたらひて、
風流の破子(わりご)やうのもの、ねんごろに営み出でて、箱風情の物にしたため入れて、双(ならび)の岡の便よき所に埋みおきて、
紅葉散らしかけなど、思ひよらぬさまして、御所へ参りて、児(ちご)をそそのかし出でにけり。
うれしと思ひて、ここかしこ遊びめぐりて、ありつる苔のむしろに並(な)みゐて、「いたうこそこうじにたれ」、
「あはれ紅葉をたかん人もがな」、「験(げん)あらん僧達、祈り試みられよ」など言ひしろひて、
埋みつる木のもとに向きて、数珠(ずず)おしすり、印ことごとしく結び出でなどして、いらなくふるまひて、木の葉をかきのけたれど、つやつや物も見えず。
所の違ひたるにやとて、掘らぬ所もなく山をあされどもなかりけり。
埋みけるを人の見おきて、御所へまゐりたる間(ま)に盗めるなりけり。
法師ども、言の葉なくて、聞きにくくいさかひ、腹立ちて帰りにけり。
あまりに興あらんとする事は、必ずあいなきものなり。
「注」
破子(わりご) 中に仕切りのある弁当箱
双の岡 仁和寺の南にある丘。
御所 仁和寺の中の法親王の御所
現代語訳
仁和寺の住職のところに、とても可愛い稚児がいました。
どうにか誘惑して、この稚児と一緒に遊びたいと思う法師もいたのです。
彼等は、芸好きの者を丸め込んで仲間にしました。
愛らしい弁当箱を特別に作らせて、汚れないように箱にしまい、仁和寺の南にある双の岡の都合のいい場所に埋めて、紅葉を散りかけ、わからないようにしておきました。
それから寺へ戻り、稚児をうまく連れ出したのです。
その日は稚児と遊びながらあちこちへ連れ回しました。
丘に登り苔むす地面に皆で座って「とても疲れた」とか「誰か、紅葉を焚いてくれないか」とか「試しに霊験あらたかなところを見せてくれないか」などと言い合いました。
するとある法師が、弁当箱を埋めた木の根に向かい数珠を持ち、物々しく両手で印を結んだのです。
いかにもそれらしい演技をしながら紅葉をかき払ったものの、そこには何もありません。
「場所が違ったか」と思い、掘らないところがないほど山を掘り返したものの、とうとう隠したはずの弁当箱は見つかりませんでした。
実は埋めているところを人に見られ、盗られてしまっていたのです。
法師たちは、その場を取り繕う言葉も失って、年甲斐もなく口喧嘩をし、最後は腹を立てて帰るしかありませんでした。
必要以上に小細工すると、結果はいつもこんなものです。
なにごとも自然体が大事ですね。
気の向くまま
徒然草は、兼好法師が筆のおもむくままに書いた随筆です。
当時の日常生活の様子がよくわかります。
今でも読んで新鮮なのは、内容が自然体だったからでしょうね。
亡くなった後は、本当に忘れられた存在だったのです。
それが250年もたった江戸時代に再び、復活しました。
有名な話では、高杉晋作が命を狙われているというので、船頭の恰好をして大坂の市中をぶらついていた時のことです。
心斎橋筋のある本屋に立ち寄って、徒然草はないかと尋ねました。
帳場に坐っていた主人は、船頭が徒然草を読むとは、と不審に思ったそうです。
高杉はとっさに近所にいる老人がおもしろい話をしてくれるが、そのネタ本が徒然草というものに出ていると聞いたのでねと返し、逃げたということです。
今とは出版事情が全く違います。
それなのに、多くの人が読んでいたというのがすごいですね。
今は、人生の指針になる本でしょうか。
悩みごとがあったら、この本を読みなさいという人が多いようです。
それだけ、兼好法師は世の中を達観していたのでしょう。
人生が無常だということを身にしみて感じていたという事実は、やはり重いです。
ぜひ手にとって読んでみてください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。