【本当は怖い前提の話】さまざまな情報が氾濫した社会を生き抜くには

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前提は怖い

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は情報と情報との関係を理解するには、というテーマを考えます。

言語学者・川添愛氏の文章にヒント得て、「前提」という概念がどれほど怖いのかということを検証してみたいのです。

社会には実にさまざまな情報が氾濫していますね。

ネット社会になって、その総量が確実に増えました。

ある意味、溢れかえった渦の中で、完全に溺れかかっているというのが実感です。

詳しく調べてみると、これらの情報は常に発信者と受信者との間に共有されているなんらかの内容を「前提」としているのです。

両者がその内容を了解しているものとして、話が先に進んでいきます。

もし知らないとしたら、完全にその話題から抜け落ちていくワケですから、皆必死です。

マスコミは多くの情報を既知のものとして、流す傾向が強いという特徴を持っています。

受信者がそれをどう理解しているのかに関係なく、話を先に進めていくのです。

そのスピードに振り落とされまいとして、多くの人が必死にしがみついているというのが、実態に近いのではないでしょうか。

新しい表現や考え方が頭越しに襲いかかってくるのを、止めることはできません。

そこには「前提」という怖ろしい隠し玉があるのです。

人間は「前提」を確かめてから、いつも情報に接しているわけではありません。

自分たちの身の周りで、いつの間にか了解もしていない内容が「前提」とされていることはないでしょうか。

それが「事実」や「常識」となって一人歩きをしていくから怖いのです。

特に警察学校の生徒たちが、事情聴取をするシーンのロールプレイは、複雑なこの問題の一面を特徴づけています。

前提を見直す

あらためて「前提」を見直しながら、情報と情報との関係を理解する意識を身につけるべきですね。

気の弱い人や素直な人は、相手のペースにはまって不利な証言をさせられる可能性があります。

自分自身の言動の中に、気づかないうちに「当然の前提」としてしまっていることがないかどうか、ふりかえってみるべきなのです。

その例を次に1つあげてみましよう。

誘導尋問になりうるパターンです。

「あなたが現場近くを車で通りかかったのは、〇月×日の何時何分頃ではありませんか」という問いがあったとします。

いいえと答えても、「現場近くを車で通りかかった」という事実は認めてしまったことになります。

わかりません、覚えていませんと答えた場合、「私が現場近くを車で通りかかった」ことを事実として認めていることになるのです。

あるいはよく卑近な例としてだされるのが、2回目のデートの誘いです。

この方法が効果的というのを聞いたことがありませんか。

「また会ってくれませんか」と訊ねるよりも、「今度いつ会えますか」と訊く方が有効だというのです。

前者は「会う」か「会わない」かという2つの要素から、最初に答えを選ぶ問いかけです。

しかし後者は「会う」ということを既に前提にしているので、そこから次の会話に入ります。

これもある意味で、前提を暗黙のうちに承認させた上での会話と言えます。

ずるいといえば、それまでです。

しかし巧妙な会話には、この類いの要素がたくさん含まれているのです。

本文の一部を読んでみましょう。

普段、あまり考えることのない「前提」の持つ威力を感じざるを得ません。

本文

確かに、質問が「また会ってくれる?」の場合よりも「今度いつ会う?」の方がやや断りづらくなる。

これは誘導尋問でこそないが、相手をコントロールしやすくするために前提が利用されている例だ。

先述のとおり、「いつ」を含む疑問文では「いつ」以外の部分が前提になるので、「今度いつ会う?」という文は「今度会う」という前提を持っている。

つまり、「今度会うこと」を自分と彼女との間での「決定事項」にしてしまうことで、ストレートに断られるのを防いでいるのだ。

このように尋ねられたとき、普通に答えたら次会うことを承諾したことになるし、「うーん、どうしよう」とか「そうねぇ」のような曖昧なことを言っても、前提を受け入れたと思われかねない。

こういった前提の利用は、日常の何気ない会話や仕事のメールなんかにも潜んでいる可能性がある。

仕事関係のパーティとかでちょっと話しただけの人から、とくに約束をした覚えもないのに「いつ御社に伺えばよろしいでしょうか?」のような連絡が来たら、「あれっ? そんな約束したっけ?」と思うと同時に、なんとなく「来るな」とも言いづらくなる。

この他、前提には「ただの主張を前提として述べると周知の事実のように聞こえ、疑われにくくなる」という効果もある。

leovalente / Pixabay

いつ頃からか、本屋に行くとビジネス本とかで「なぜ○○は××なのか」というタイトルを多く見かけるようになった。

このようなタイトルの本が多いのは売れるからなのだろうが、それには「○○は××」という部分が前提であることが少なからず関係していると思う。

この手のタイトルの「〇〇は××」の中には、事実でもなければ社会の共通認識でもなく、ただの著者の主張であるものも見受けられる。

ところが、それでも「なぜ……か」という構文に埋め込んで「前提」として提示されると、あたかも多くの人に受け入れられている一般常識であるかのように見えてしまう。

こんなふうに「前提」には、私たちの無意識というか、心のスキマにするりと入り込むような怖さがある。

言葉の怖さ

言葉がなければ、人間は自分の意志を相手に伝えることができません。

しかしそのメカニズムを完全に理解し使っているワケではないです。

特に広告などは、暗黙知と呼ばれる前提を前のめりになって、利用するというケースが多いのです。

よく出される例に「無添加なのにおいしい」という表現があります。

この言葉の背後を少し探ってみましょう。

「無添加」イコール「おいしくない」がその言葉の裏側に宿っています。

論理的な意味は必ず、その内側に前提を含みこんでいると考えるべきです。

その文章を成立させる以前に、多くの人が持っている共同的な幻想です。

この例でいえば、無添加であるものは、身体にはいいが、あまりおいしくないという結論になるのです。

「かんすい」という化学薬品がありますね。

御存知でしょうか。

植物などを燃やした後に生じる灰を水に溶かし、煮詰めた上澄み液のことです。

成分は炭酸カリウムやナトリウムです。

これを小麦粉に混ぜることで、柔らかさや弾力性を持たせることができます。

ラーメンの麺には必須の添加物です。

発がん性があるなどと言われていますが、はっきりしたことはわかりません。

お腹をこわす人がいるのは事実のようです。

実は「無かんすい」のラーメンも売られてはいます。

しかし麺にこしがなく、あまりおいしいという評価はありません。

ここまでが前提です。

この事実を多くの人が知っていればいるほど、次の広告の効果が現れるのです。

それが「無添加なのにおいしい」というものです。

この文が主張している内容は、2つの部分に分けられます。

無添加であるということと、おいしいです。

それを「なのに」で合体しました。

その瞬間から「前提」だった「無添加」のものは通常おいしくないが、180度裏返しにされたのです。

ここに前提の持つからくりがあります。

人種、ジェンダーなどにからむ偏見なども、共同幻想的な「前提」を基本にしているだけに、大変厄介な内容を孕んでるいるのです。

少し、ゆっくりと考えてみてください。

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言葉の持つ怖さを感じていただければ幸いです。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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