【郁離子・寓話集】フグを食べて死んだ息子に対して親がとった態度は

郁離子(いくりし)

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は寓話にチャレンジしましょう。

短いものです。

高校で習った人がいるかもしれません。

『郁離子』は元の末から明初めの軍人で詩人だった劉基(りゅうき)の作品です。

劉基(1311~1375)は明の建国に貢献した政治家でもありました。

国家安定のために尽力したのです。

「郁離子」とは作者自身のことです。

官界の腐敗ぶりを機知に富んだ文章で描きました。

この本は180編もの短編が収められている寓話集なのです。

今回の話の中で、彼は天命というものの本質を描こうとしたのでしょうね。

ちなみに『論語』には有名な箴言があります。

「死生に命有り、富貴は天に有り」というものです。

死生も富貴も自分の力ではどうにもならないものだという考え方です。

司城子は世の中に賄賂がはびこっていることを大いに嘆いていたようです。

それでも自らに言い聞かせたのでしょう。

これも天命なのかと。

しかしなんとかしなくてはいけない。

もう少しイメージをふくらませてみると、フグと賄賂の関係もみえてきます。

自分の食欲を満たそうとして、フグの毒にあたる者と、賄賂をもらって私腹を肥やすことばかりを考える者。

そこにどれほどの差があるのかということです。

いつか露見して、罪を問われることになるのは必至でしょう。

それをなんとか逃れようとして、言い訳を繰り返す人生に比べたら、この御者の父親の方がずっと人間としては立派だということになります。

本文

最初に本文を読みましょう。

書き下し文を載せます。

司城子の圉(ぎょ)人の子,鯸鮐(こうい)を食して死するに哭かず。

司城子之に問ひて曰く「父と子、愛有るか」と。

曰く「何為(なんす)れぞ其れ愛無からんや」と。

司城子曰く「然らば則ち、爾(なんぢ)の子死せども哭(な)かざるは,何ぞや」

対(こた)へて曰く「臣之を聞く。死生命有り、命を知る者は苟(いやしく)も死せずと。

鯸鮐は毒魚なり。

之を食らふ者の死するは、夫(それ)、人知らざるは莫(な)きなり。

而(しか)して必ず食し以て死するは,是、口腹を為に其の生を軽んじ、人子に非ざるになり。

是を以って哭かず。」

現代語訳

司城子の御者の子が、ふぐを食べて死にました。

しかし御者は泣きませんでした。

司城子はそのことを訊きました。

「父と子の愛情がおまえにはあるのか」と

御者は答えます。

「どうして愛がないことがありましょうか」

司城子はさらに聞きました。

「そうであるなら、自分の子が死んだのに泣かないのはどうしてなのか」

御者はこう答えました。

「私はこう聞いております。

人の生き死にには運命というものがあります。

しかし自分の為すべき命を知っているものは無駄に死ぬことはありません。

ふぐが毒魚であり、それを食べれば死ぬと、そもそも知らない人は誰もおりません。

それなのに、この魚を食して死ぬとは。

これは腹を満たすことを重んじて、その生命を軽んじる行いです。

私の子とはいえません。

それ故に泣かなかったのです。」

(注)「司城」というの は土木関係の役人をあらわす官職名です。

論語の言葉

死生に命有り、富貴は天に有りという論語の言葉がこの話の眼目だということは理解できたのではないでしようか。

同じ意味の言葉には、「人事を尽くして天命を待つ」とか「天は自ら助くる者を助く」などがあります。

「死生」とは、死ぬことと生きること、つまり何才まで生きられるかということです。

「富貴」とは、資産、身分の高さを言います。

かつては全てが天の決めることだったのです。

どんなに無理をしても、自ずと自分の得るものは決まっていると考えていたのでしょう。

儒教的な思想だと言えます。

だからこそ、空腹に耐えかねてフグを食べ、死んでしまったとしても、それはその人の天命だと考えたのです。

けっして親が子供の死を悼まないワケではありません。

しかしあるところから先は、人知の届かぬところと考えていたに違いないのです。

時代はまさに揺れていました。

賄賂も当然のようにあったのです。

それを劉基は脇で見ていただけに、御者の言葉の中にこの世の真実を感じたのでしょう。

もちろん、実際にそんな話があったのかどうかは判然としません。

あくまでも寓話です。

しかし昔の人はそれを一面の真実と受け取ったのです。

そう考えてみると、最近のニュースにはうんざりさせられますね。

新聞をにぎわせているオリンピック関連の賄賂も実に無様な話です。

最初は大会用の公式スーツの話だけでした。

しかし調べていくにつれ、いくつもいくつも企業名が出てきます。

ぼくも以前は広告代理店で仕事をしていた時期があります。

仕事の内側はだいたい理解できるのです。

何をするにも会社の人間関係が潤滑油になるという風景は見てきました。

今やあらゆるイベントは代理店を通さなければ動きません。

細かな内容を素人の集団が差配するなどということは、到底できないのです。

大規模なイベントになればなるほど、ノウハウを持った集団が活躍する素地が出てきます。

テレビなどへの広告量が下降するのにともない、人が集まる大きな大会などは、大規模な代理店の手の中にあります。

オリンピックなどは、その代表格でしょうね。

予算がいくらかかるかは現場の判断次第です。

天井があってないようなものなのです。

そこにおいしい話があれば、つい手が伸びるのも人情でしょう。

個人の顔が必要なスポーツの世界と、経済の世界が繋がるのに、それほどの時間はかかりません。

つまり今回のような事件がでてくる要素は山のようにあるのです。

人間は弱い生き物です。

権力と金の関係は永遠でしょうね。

漢文の世界は歴史があるだけに、深くて広いです。

人間の哀しみに満ちているのです。

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今回はここまでにしておきましょう。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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