誰でも俳優になれる時代
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
俳優、中村敦夫のことを覚えていますか。
変わり種でしたね。
マスコミに登場しなくなってから久しいです。
世間では「木枯らし紋次郎」として広くその名を知られました。
しかしぽっと出のタレントではありません。
心棒が一本通っています。
演技の基礎は俳優座養成所できちんとたたきこまれた人です。
外語大を中退して、養成所に入ってはみたものの、鬱々として楽しめない日々が続いたようです。
というのも当時の演劇界は路線闘争の真っ只中でした。
新劇の世界は完全な左翼の牙城です。
俳優座も全く同様でした。
千田派、小沢派、中間派に分裂していたのです。
詳しい人はご存知ですね。
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演出家、千田是也。
俳優、小沢栄太郎。
さらに中間派。
レパートリーも政治闘争の色合いを深めていました。
そのあたりのことは彼の著書『俳優人生』に詳しいです。
普通、この種の本はゴーストライターによって書かれることが多いものです。
しかし、この本はそういう類のものではありません。
彼の感性によって貫かれていることが、読めばすぐにわかります。
筆力
彼が書いた小説を数冊読めば、その筆力の確かさがすぐにわかります。
なかでも『チェンマイの首』は代表作です。
その他、『 マニラの鼻』『ジャカルタの目』などがあります。
当時は演劇人たちも、思想闘争を繰り返していました。
芝居は二の次だったのです。
そういう時代でした。
今からでは想像もつきません。
日本が再び戦争にまきこまれるかどうかという議論で沸騰していました。
その原因の1つが安保闘争だったのです。
中村敦夫は心底嫌気がさしたのでしょうね。
そんな時、アメリカ国務省が所管する職業人のための奨学金制度があるのを知りました。
彼はそれに応募しようとします。
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先輩が受けるのを見て、翌年受験しようとしていたのです。
いわば付き添いの形で試験場にあてられたホテルに赴きます。
そこでの試験はただのパーティでした。
彼のところへも国務省の役人がやって来ました。
少しお酒を飲んで気が大きくなっていたせいでしょう。
かなり大胆になり使い慣れない英語で話をしたのです。
ところがそれが功を奏したのか、先輩ではなく、彼が合格してしまったそうです。
最初劇団幹部達が渋るのではないかと危惧しました。
しかし、うるさ型の中村は敬遠されたようです。
あっさりと許可が下りました。
人生というのは本当に何があるのかわかりません。
時に1965年。
彼ははじめて飛行機に乗りました。
カルチャーショック
ハワイ大学での生活が始まったのです。
カルチャー・ショックというのはまさにこのことだったと述べています。
日本とは何もかもが違いました。
女子学生の物怖じしない話しぶり。
ホモの数や、理詰めの授業。
中村はここで前衛演劇の演出なども担当しました。
留学期間の9ケ月はあっという間に過ぎてしまいました。
それだけではあまりにももったいないので、主任教授に懇願しました。
アメリカ本土の旅を続けさせてもらったのです。
ここでも教授のユダヤ人ネットワークに助けられました。
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グレイハウンドバスの99日間、99ドルという学生用周遊券をもらうことができました。
フリーチケットのようなものです。
どこへでもバスに乗っていけるのです。
アメリカへの旅を続けました。
帰国後の活躍もすんなりと始まったわけではないようです。
かなりの映画などに出演してみたものの、いいことはありませんでした。
唯一、NHK『春の坂道』の中で演じた石田三成役で人気が出たという程度だったようです。
木枯らし紋次郎
その後は笹沢佐保原作「木枯らし紋次郎」での活躍とともに記憶に新しいところです。
この後、俳優座を退団しました。
プロダクションを市原悦子などとともに作ったのです。
しかし基本的に一匹狼である俳優達がまとまるなどということはありません。
まもなく解散してしまいました。
この後彼は多くの作品に出るものの、既に映画の全盛期は過ぎていました。
現場の活気が急速に薄れていたのです。
いわゆる職人肌のスタッフがいなくなっていました。
その一方で、俳優達は自分の「格」を保つことに汲々としています。
それがますます作品をつまらないものにしていきました。
いわゆる看板の順序をめぐって、役者同士は熾烈な争いを続けます。
格付けは1枚目と最後が最上格で、真ん中が続きます。
それからは最初から2枚目。
あとは特別出演、友情出演などという文字を書き加えて、なんとか場所をおさめます。
しかし沢山のスターが出る映画の場合、場所の取り合いで喧嘩になります。
混乱に拍車がかかるというワケです。
お金が飛び交ったり、マネージャーが暗躍したりすることもあります。
世間とはかけ離れた世界であることに間違いありません。
彼は多くの役者の横顔をここでも見事に描いています。
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三船敏郎と一緒にいるだけで気詰まりだという人が多い中で、彼は2人きりで何時間でもいられたそうです。
三船の関心は演技にはなく、このころ確実に事業にうつっていました。
それが後の制作会社設立と失敗につながったと分析しています。
また三田佳子、山本陽子、市原悦子などに対しての評価にも鋭いものがあります。
女優がいかに男性的であり、俳優同士の結婚生活が破綻する理由も示しています。
その後の彼の活躍は作家からキャスターへさらには国会議員の活動へと続きます。
テレビに対する失望感にも深いものがあるようです。
芸能界への批判も厳しいです。
またキャスター時代から続けている統一協会との戦いぶりもすさまじいものがあります。
学生時代の友人を助けるために人権擁護団体、アムネスティー・インターナショナルの仕事も長く行ってきたとか。
1人の人間の生き方としても学ぶべきところがたくさんありました。
今では彼の名前すら知らない人がたくさんいると思います。
しかし人に歴史あり。
まさに激動の時代を生きた俳優の1人です。
今は誰でもがタレントになれる時代なのかもしれません。
しかし消えてしまうスピードのなんと早いこと。
特殊な人間の集団であることに変わりはないのです。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。