徳川家康の逸話
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は徳川家康の話をご紹介します。
『近古史談』という本の名前を聞いたことがありますか。
江戸後期の歴史書です。
幕末から明治初頭の漢学者、大槻磐渓という人の著書です。
元治元年(1864)に刊行されました。
今回はその中に出てくる、太公と呼ばれた家康の話です。
誰でもが天下に君臨し続けるということは無論できません。
数少ない覇者たちの逸話を集め、そこに共通する生き方を考察してみようとしたのが、この本の目的なのです。
今回の話に似た例として、神社を移築し、天子の陵墓の樹木を伐採して伏見に居を構えた豊臣秀吉のケースもこの本では紹介されています。
こちらは「暴挙」とされ、家康の行為は「慎み」と認識されています。
天下人になるべき人は、最後まで「慎み深さ」をもち続けなければいけないという教訓を頭に入れて読んでみましょう。

ほととぎすを「鳴くまで待とう」と時がくるまで待ち続けた家康らしい逸話だといえますね。
人間の欲望にはどこまでいっても限りがないものです。
ことに権力者となれば、好き放題のことができます。
それだけに「公」と「私」の厳しい区別を自制してみずからに課さなければ、民衆はついてきません。
必ずそうした政権は破綻するのです。
そのいい例がこの文章の家康なのではないでしょうか。
全文
太公安倍川を引き城中に入れて、以て園池に注がんと欲し、吏に下して之を議せしむ。
吏、水道を経理し、小榜を以てす。
偶たま太公、放鷹(ほうよう)より還り、其の道の一小寺に当たるを見て悦ばず。
従臣、或いは説を献じて曰はく、宜しく地を他処に賜ひ以て其の寺を移し而る後に役を起こすべし、と。
太公曰はく、否否。

仮(も)し此の役をして國の為、民の為にして相謀らしめば、大寺巨刹と雖(いえど)も亦(ま)た之を移さざるを得ず。
今日の挙は、特(ただ)老夫の一時の娯楽の計なるのみ。
娯楽の計にして古来置く所の仏寺を毀(こぼ)つは、吾欲せざる所なり。
遂に命じて其の役を止めしむ。
現代語訳
太公は安倍川の水を城の中に引き入れて、庭園の池に流し込もうと考え、役人に命じて計画を立てさせました。
役人は水路を設計し、計画を進めたのです。
ちょうど太公が鷹狩りから帰ってきたとき、その水路が途中で一つの小さな寺にかかるのを見て、どうしても気に入りませんでした。
家臣の中には進言する者がいました。
「別の土地を与えて寺を移し、そのあとで工事を行うのがよいでしょう」と言いました。
そこで太公は呟きました。
「いや、それは違う。

もしこの工事が国や民のためのものであるならば、大きな寺であっても移さないわけにはいかないだろう。
しかし今回の計画は、ただ私の一時の気分で口にしただけのことだ。
そんなことのために、昔からある寺を壊すことは、私の望むところではない。」と。
こうして太公はすぐに工事を中止させたのでした。
公と私
確かに国や人民のために寺を移すということも、世の中にはあるでしょう。
やむを得なかった場合もあったかもしれません。
難しくいえば、「公益」です。
しかしこの話に出てくる移転はあくまでも自分の気分だけの行動です。
「私」の気まぐれだとするなら 、たとえ小さな寺ではあるとしてもそれを壊してはならないという鉄則です。
それが正しい政治なのです。
つまり公共の利益と私的な欲望を厳格に区別する倫理こそが、政治をしていくうえで、最も基本となる要素だという鉄則です。
為政者のあるべき姿として、家康は権力があるから何でもできたのではなく、してよいこと、してはならないことを自制する人物であったから可能だったと描かれています。
徳川300年の土台を築き上げるために、さまざまな気配りをして、盤石のシステムをつくりあげていった家康らしい話ですね。
それなしには戦さのない太平の世を築きあげることは不可能だったでしょう。
家康はあくまでも政治的、倫理的判断を優先しました。
それをどこで学んだのか。

長期にわたる忍従の日々の中で、じっと我慢することを身につけていったに違いありません。
冷静な自己分析を持続させるということは、大変に孤独で苦しいものです。
現代の政治家をみてみれば、最初は謙虚に振舞っていた人たちも、やがてイエスマンに囲まれ、悪い噂は入ってこなくなります。
自らの全能感に酔いしれているうちに、「裸の王様」に変身していくのです。
気がついたときには、すでに遅しというのが実態でしょう。
それだけに後の世にまでとどろいた三河武士の我慢強さを体現していた家康という人間の内側を垣間見たような気がします。
漢文の文章は難しいですが、独特の味わいがあります。
ぜひ、声に出して読んでみてください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
