横山光輝の漫画
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は三国志の世界を一緒に考えましょう。
全編を読破するのは大変です。
日本でも多くの作家が挑んでいます。
吉川英治、宮城谷昌光、陳舜臣、北方謙三などです。
誰のを読んでも胸躍る作品になっています。
ぼくは時間がないので、横山光輝の漫画に頼りました。
全巻60冊あります。
横山光輝の代表作の1つです。
吉川英治の小説を元にしています。
彼の小説は諸葛孔明の死で終わっていますが、漫画の方は蜀が滅亡するまでを描ききっています。
とにかく長い。
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読むだけでものすごくエネルギーを使います。
中国の歴史の一端がマンガだけで理解できるとは思いません。
しかし実によく描けた本です。
『三国志』を描いたマンガの先駆けといっていいでしょうね。
実は勤めた高校の国語科の資料でもありました。
全巻、揃っていたのです。
毎日、1冊ずつ読んでも2か月かかります。
途中でくたびれてしまいます。
諸葛孔明が南蛮の奥深くまで訪れたことを知ったのは、この本を読んではじめて知りました。
南蛮の王孟獲、孟優を7度捕らえ、解放したという逸話はどこまで本当なのか。
史実としては少し突飛に過ぎるという学者もいます。
いずれにしても、黄巾の乱から蜀の滅亡までを描ききっています。
第20回日本漫画家協会賞優秀賞を受賞作品なのです。
累計発行部数も8000万部を遥かに超えているとか。
全巻揃えて何度も読み返すというのが、この本の正しい味わい方だとよく言われます。
三国志
三国志は中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代の話です。
西暦でいうと、180年頃から280年頃。
魏、呉、蜀の3国が争った時代の歴史を述べた歴史書です。
中国の歴史の中では項羽と劉邦などと並んで本当に波乱の時代でした。
現在読んでいる本は殆どが『三国志演義』を題材にしたものです。
これくらい多くの人に読まれてきた本はないのではないでしょうか。
三国志といっただけで、なんとなくワクワクしてきます。
NHKでもかつて人形劇になりましたね。
その他、中国で制作された実写版の三国志や、日本でもアニメが放映されています。
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とにかく全編を通じて楽しいのです。
広い中国の大地に3つの国が割拠していたという話ですから、スケールも壮大です。
黄巾の乱の鎮圧で関羽・張飛とともに天下に名をとどろかせ始めていたのは誰か。
それがまさにこの話の主役、劉備玄徳です。
一方、諸葛亮(孔明)はまだ名前を知られていませんでした。
しかし、国を治めるには優秀な参謀が必要なことを劉備は知っていたのです。
まだ20代の諸葛孔明の噂を知り、どうしても劉備は自分の参謀として迎えたいと思ったのです。
この時、諸葛亮に出会わなかったら、後の劉備は存在しなかったでしょう。
それくらいに人が国を治めるための礎だということを、彼はよく知っていました。
三顧の礼
三顧の礼というのは、故事成語の1つです。
後漢王朝が衰退し、各地で豪族が争っていた時代のことです。
劉備はまだ自分の領土を持っていたワケではありません。
ただの放浪者だったのです。
しかし時代を読む目だけはしっかり持っていました。
とにかく優秀な人材を自分の相談役に迎えたかったのです。
堅い約束を結んだ義兄弟、関羽と張飛は既に存在していました。
しかし彼らだけでは不安だったのです。
力と気力は確かに彼ら2人にはあります。
しかし先を見通す目は不十分だと感じていました。
そんな頃、ある人物が田舎に隠棲してい諸葛亮の存在を教えてくれます。
彼は郊外に住む孔明の家を訪問します。
しかしその時は不在でした。
そして2度目、真冬の雪が覆う中、また再び劉備は関羽張飛らと共に孔明のところに訪れます。
今度は旅に出てしまい、いつ戻るかわからないとのこと。
そこで劉備は手紙を綴り、再び戻りました。
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気の短い張飛などはなぜそんな男のために、劉備が頭を下げなくてはならないのかと訝しみます。
張飛は内心面白くありませんでした。
会ったこともない人間になぜそこまでするのか。
猛反対をしたのです。
張飛は手紙も渡したことだし、呼び出せばよいと進言します。
それでも劉備は丁重に迎えたいと言いました。
しかし劉備には予感があったのです。
この人物がいなければ、自分は天下をとることができない。
そのためには何度でも訪ねよう。
3度目に孔明の家を訪ねると、孔明は昼寝をしていました。
劉備はじっと孔明が起きるのを待ちました。
張飛は再び激怒しますが、関羽は劉備の気持ちを察して、張飛を説得します。
ついに3度目にしてやっと会うことができ、孔明を補佐役に迎えることができたのです。
それ以降、彼の才知が並々のものではないことが判明していきます。
蜀を支配下に
孔明には天文学の知識がありました。
気象の予知もできたのです。
赤壁の戦いでは曹操軍を相手に勝利を得ます。
この時は風の向きを読んだといわれているのです。
曹操軍が油断した隙に油をかけ曹操の船団をほぼ燃やし尽くしてしまいます。
そのために船を結び合わせてあらかじめ動けないように仕向けました。
孔明の知恵の賜物です。
その後、劉備は最終的には蜀という地方を支配下に収めます。
皇帝の位につくことができたのでした。
孔明がしたためた「出師の表」という文章にはそのときのことを書かれています。
皇帝陛下(劉備)が、わざわざ家まで何度も訪ねてきてくれたと振り返っているのです。
劉備は後漢の皇帝の遠い親戚にあたるといわれています。
高貴な人物が田舎の庶民を相手にする時は、通常ならば使いを出して呼びつけるものです。
しかしわざわざ自分で何度も訪ねてきてくれたことが、よほど諸葛亮には嬉しかったのでしょう。
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劉備は自分の未熟さをよく知っていました。
曹操と孫権の勢力が睨み合っている時代の中で、自分に国が治められるのか。
そこで孔明は天下三分の計を考えました。
彼が27歳の時のことです。
「三顧の礼をもって迎える」という表現はよく使われますね。
そこまで丁重に扱ってもらえる人間になりたいものです。
今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。