【黙食・黙働・黙打】口を開いてはいけないことの辛さ【身に沁みる】

暮らし

黙食

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は黙ることの辛さについて考えます。

突然ですが、「黙食」という言葉をご存知ですか。

お子さんが学校へ行ってる方なら、よく知ってますよね。

給食の間、誰とも喋ってはいけないのです。

元々は楽しくお話をしながら、いただくというのが食事の基本です。

いかにリラックスしてもらうかというのが、お客をもてなす人の役割なのです。

もちろんお酒がそのための介添え役になることもあるでしょう。

なんといっても基本ははずむ会話です。

どの程度楽しく明るい雰囲気を作れたのか。

全てはその食事会に参加した人々が醸し出す気品や知性に支えられているのです。

ところが現在のコロナ禍です。

なんとか給食を再開してはみたものの、食事の時だけはマスクを外さなければなりません。

そこで飛び出したのがまさに「黙食」なのです。

これは生徒にとって苦痛以外の何物でもありません。

親しい友人が隣に座っているのに、喋ってはいけないのです。

ところが最近の生徒は本当に偉いですね。

きちんと先生の指示を守っています。

何も話そうとはしません。

ただひたすら黙々と食べるのです。

見ていると、気の毒になってしまいます。

むしろ、先生の方が我慢できないシーンがあるようです。

黙食なんていやな言葉ですね。

しかしオミクロン株が発生してしまいました。

当分、この流れが消えることはないでしょうね。

黙打

最近、朝の通勤、通学の電車は大変静かです。

声を出して話をしていると、近くに座っている人に睨まれてしまいます。

そのかわりといえば、それまでですけど、スマホの黙打一辺倒です。

電車の中では多くの人たちが、ひたすら黙って打っています。

あるいは指を動かして、ネットサーフィンやゲームをしているのです。

自分が1人ではないことを確かめるために、ラインをし、メールを打ち、さらにツィートをします。

人間は常に他人と繋がっていなければ生きていられません。

なにもないのはあまりにも寂しすぎます。

どんなことでもいいから呟きたい。

気持ちはよくわかります。

文章に論理的なメリハリは特に必要ありません。

しかしそれが過度に出すぎるようになってしまいましたね。

そのせいなのでしょうか。

最近は作文だけでなく、レポートなども書けない生徒が多くなりました。

満足に文章を構築できないのです。

短いものを呟くことはできます。

しかし小見出しを意識しながら、段落を重ねて論理を築くという作業ができなくなってしまいました。

小論文などは夢のまた夢です。

読んでいると、とんでもない論理の飛躍があります。

来年以降、高校の新指導要領になる「論理国語」などという科目はどうなっていくのか。

不安がよぎりますね。

あまりにも静かな電車の中ではひたすらネットに頼る以外、他の方法はないのでしょうか。

本を読んでいる人の姿もほとんど見かけなくなりました。

新聞も雑誌もあまり売れていません。

黙働

かつて愛知県の学校では「黙働」という考え方を徹底的に指導したと聞きます。

他の県でもかなり実践しているところがあります。

黙働清掃と呼んでいるのです。

これは誰とも話さずに、ひたすら沈黙したまま、掃除などの労働をすることをさします。

なんとなく耳障りで嫌な言葉です。

賛否両論がありますね。

生徒に掃除をやらせるのは労働か教育かという問題です。

はじめてこの言葉を聞いた時、強い抵抗を覚えました。

個人の意志を無視した強制の匂いがしたからです。

かつて広島を訪れた時、かなりの数の人たちが、この黙働をしている風景を見かけたことがあります。

彼らは近くのお店の従業員のようでした。

平和公園の中をひたすら黙ったまま、清掃していたのです。

全く声も出さずに沈黙したまま、箒を手にしている姿はまさに修行そのものでした。

きっと経営者か店長が思いついたのに違いありません。

しかし大勢の人が何も喋らずにただ働いている姿には少し気味の悪いものを感じました。

彼らは本当に最後まで一言も発しませんでした。

まさに無言の行です。

黙って行動することは苦しいです。

それを従業員にやらせることで、そこに意味を見いだそうとしたのでしょう。

そういう考えも確かにあるのかもしれません。

禅宗では沈黙が修行の1つとされていますしね。

コミュニケーション不全

事業中、スマホを机の上においている生徒はさすがにいません。

しかし持っていないと、クラブ活動さえできないのが現状です。

ミーティングの場所や時間の変更なども刻々と連絡が入ります。

緊急に練習試合が入ることもあります。

そのための待ち合わせ場所や時間の確認も必要です。

日常の時間がスマホの中を漂っています。

それが新しいコミュニケーションの形なのでしょう。

たえず開いて確認していないと不安になるほど、依存する体質に変化してしまいました。

最近ではコロナワクチンを打った証明もスマホで代用するのだとか。

あと数週間で今年も終わります。

来年はどのような年になるのでしょうか。

全く予測がつきません。

ただ今日という日を明日にしていくだけの日常を健気に続けなければなりません。

geralt / Pixabay

先日ふらりと入ったラーメン屋さんにこんなことが書いてありました。

毎日を一生懸命生きていくことの中にしか、未来はないというものです。

あたりまえだと言ってしまえば、それだけのことです。

しかし人間は本当にこの毎日の生活を半ば苦しみながら生きているのです。

誰の人生もつねに華やぎに満ちているわけではありません。

同じように葛藤があるのです。

その中で、どれだけ笑顔を保ち続けることができるのかが、本当の勝負ではないでしょうか。

しかしいつも黙っていろと言われても、それはできません。

日本も含めて世界はエネルギーの確保に苦労しています。

ダウンサイジングをしながら、経済をまわしていかなくはいけないのです。

小さくなりながらも生き残る手段を考えなければなりません。

それだけに人との関係を薄くしてしまうのはつらいですね。

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人肌のぬくもりを感じながら話しあわなければなりません。

黙打、黙食、黙働ではやはり間に合わないのです。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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