【この国のかたち・司馬遼太郎】壮大な闇を持つ人物に憧れる民族の心

日本人とは

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

コロナ禍の中、いかがお過ごしですか。

まもなく非常事態宣言も解除されるという情報も伝わっています。

一方でワクチンの供給量が思うようにいかず、接種の実施が大分ずれ込むという報道もあります。

同時にオリンピックの開会へ向けて、舵を切りたい人々の存在も明らかにされています。

国全体がどこへ向かおうとしているのか。

その姿は杳として知れません。

歴史はいつも後になってみなければ、その意味がわからないものです。

評論家の加藤周一はかつて、人は歴史に学ばないと書きました。

厳しい表現ですが、一面の真実を告げているのかもしれません。

しかしすばらしい時代小説を読むと、歴史の全体像をある程度掴むことができます。

結局は全てが過ぎ去った時点でなければ、なにもわからないというのが本当のところなのでしょう。

voltamax / Pixabay

あるいは過去形になった後でも、総括は簡単にはいかないものなのかもしれません。

歴史は勝者のものだとよく言われます。

どの視点から見たかによって、大きく価値はかわるのです。

そういう意味でよく例に出されるのが司馬史観です。

歴史文学の第一人者、司馬遼太郎の小説にはいつも大きな捉え方があります。

読者は彼の歴史観の中にどっぷりと浸かって、ともに泣き笑うのです。

だから読み終わった後には、壮大なカタルシスがあります。

司馬遼太郎の小説で西郷隆盛や坂本竜馬に出会ったという人はたくさんいるのではないでしょうか

実はぼくもその1人です。

この時代のこの人に会いたいと思ったら、司馬文学しかありません。

かつては他の作家のものもよく読みました。

しかし歴史全体を俯瞰する目の確かさは、やはり司馬遼太郎の作品に一日の長があります。

読んでいて心を揺さぶられるのです。

この国のかたち

彼の小説については後に語るとして、『この国のかたち』の話をさせてください。

『街道をゆく』と並んで、司馬遼太郎の国家観が実にみごとに描かれたエッセイです。

内容は多岐に渡っているので、簡単に要約できません。

1番気になるのは「統帥権」に関わる章です。

彼は亡くなるまで、この内容にこだわり続けました。

日本という国を愛したがゆえに、なぜこんな愚劣な戦争をしたのかということを亡くなるまで考え続けたのです。

その結果出てきた考えが統帥権の問題でした。

なぜこんな馬鹿な戦争をする国に生まれたのだろう。

いつから日本人はこんな愚かになったのだろう。

この問いに対する答えが多くの小説を生み出したと司馬は語っています。

戦後、日本は経済の成長を目指し驀進します。

しかし数十年が経った頃から、日本はまた様変わりしたと考えました。

戦争を放棄したはずなのに、なぜかその時代に回帰していくような怖れを感じたのです。

日本のかたちとは何であるのか。

価値の多様性、独創性のある思考が社会を活性化させると信じて生きてきたのです。

しかしそれと反対に均一化への方向へ走りつづけていく不安が増していきました。

このまま進めば、やがて日本は衰弱していくのではないか。

統帥権の無限性ということも同時に気になって仕方がなかったのです。

参謀という名前の下、権力を持った人たちが愛国的に肥大していきました。

国家はそれをただ追認したのです。

三権分立だった明治憲法から次第に統帥権が独立し始めました。

全権力がその3文字の中に閉じ込められ、やがて無謀な戦争に突入していきます。

そのプロセスを司馬遼太郎は皮膚感覚で畏れたのです。

それと全く同じものが戦後の日本から消えていないことも予感していました。

心の中の天下

司馬遼太郎が亡くなって既に25年。

もし彼が生きていたなら、今の世の中をどう見るのでしょうか。

聞いてみたい気がして仕方がありません。

この随筆の中には24編が収録されています。

今までに何度も読み返してきました。

その中に「テゲ」という表現が何度も現れます。

テゲというのは大概と書くのです。

沖縄ではこれを「テーゲー」とのばして発音します。

薩摩では「テゲテゲ」とも言います。

司馬遼太郎に言わせれば、テゲであるべき人物は人格に光がなくてはいけないのだそうです。

私心のないことが一番大切で、さらにいえば難に殉ずる精神と聡明さが必要です。

日本人の心の中には天下というものがまずあるらしいと彼は言います。

そしてその下に大きな虚があるのです。

つまりなんにもない存在としての虚です。

そこに人物があらわれ、天下を一時預かるという形が日本人は好きです。

だから人々がついていくのでしょう。

西郷隆盛などという人は、まさに壮大にテゲが破裂したような人だったのかもしれません。

あるいは坂本龍馬もそうです。

日本人はなぜかこういう型の人間が好きなのだと司馬遼太郎はいいます。

偉大なる暗闇

大きくて壮大な暗闇がそこにあるというだけで、どうも日本人は安心しきってしまうような傾向があります。

上に立つものは、ただの虚であればいいのです。

そこに向かって人々が勝手に歩き出します。

そうした構造が日本という国の屋台骨をつくってきたのかもしれません。

これはひょっとして天皇制にも通ずる大きなテーマです。

しかし今、大きな暗闇はなくなりました。

テゲもなくなったのです。

上に存在している人々は、私利私欲の塊そのものです。

隙あらば財産を殖やすか、自分の子供を後釜に据えようと狙っています。

これでは誰もついてはこないでしょう。

山県有朋にテゲはなかったと司馬は言います。

だから日露戦争において満州軍総参謀長を勤めた児玉源太郎は同郷の先輩を嫌ったのです。

人間の関係は誠に不思議です。

加減乗除がそのまま正解を出すわけではありません。

そんなことを考えていたら夏目漱石の『三四郎』に登場する偉大なる暗闇、広田先生のことを思い出しました。

彼にははたしてテゲがあったのかどうか。

kareni / Pixabay

正解は漱石しか知らないのでしょう。

万事において空虚である存在になることは至難です。

しかし最終的に多くの人間を動かしていくことになるのです。

諸葛孔明は知者ではありましたが、テゲではなかったと思われます。

司馬遼太郎の小説はどれを読んでも面白いです。

これだけの作家は出ないでしょう。

歴史の俯瞰図をつねに見続けながら、個々の人物の生きざまを知ることができます。

『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』『翔ぶが如く』などどれもお勧めしたいです。

ご一読ください。

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最後までお読みいただきありがとうございました。

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