【山椒魚・井伏鱒二】寓話にこめられた生存の苦悩【自意識と虚勢】

小説『山椒魚』

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は井伏鱒二の『山椒魚』をとりあげましょう。

高校でこの作品を取り上げることはなかったような気がします。

教科書に所収されていなかったのかどうか。

はっきりと覚えていません。

内容が難しいというワケではないと思います。

ぼくがこの作品に触れたのは学生時代です。

本当に短いものなので、すぐに読めます。

しかし読後感は複雑でしたね。

どういう風に理解をすればいいのか、しばらく考えてしまいました。

この記事を書くため、久しぶりに通読してみました。

やはり難しいというのが最初の印象です。

寓話ですから、どういう解釈をしても誤りではありません。

作者についてはご存知でしょうか。

なんといっても代表作は『黒い雨』ですね。

広島原爆について書いたこの小説が彼の金字塔です。

しかしそれだけではありません。

作品としては直木賞を受賞した『ジョン万次郎漂流記』『本日休診』などが有名です。

それ以上に彼の名を高めたのは太宰治との関係です。

太宰治の『富嶽百景』を読むと、彼の結婚の仲人までしたことが仔細に書かれています。

文学上の師でもあったのです。

井伏鱒二が亡くなった後、太宰は彼の選集を編みました。

筑摩書房からの依頼がよほど嬉しかったものと思われます。

書き出し

この作品は寓話です。

山椒魚のあの姿を想像してください。

その生命の中に宿った思いが綴られています。

書き出しは以下の通りです。

—————————–

 山椒魚は悲しんだ。

彼は彼のすみかである岩屋から外へ出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外に出ることができなかったのである。

 今はもはや、彼にとって永遠のすみかである岩屋は、出入り口の所がそんなに狭かった。

 そして、ほの暗かった。

 強いて出ていこうと試みると、彼の頭は出入り口を塞ぐコロップの栓となるにすぎなくて、それはまる二年の間に彼の体が発育した証拠にこそはなったが、彼を狼狽させかつ悲しませるには十分であったのだ。

「なんたる失策であることか!」

 頭が大きすぎて、岩屋から出られない。

—————————-

これが主人公のおかれた現在の姿です。

あらすじ

山椒魚は自分が岩屋の外に出られなくなっていたことを知ります。

それまでの2年間、じっしていたので自分の身体が大きくなったことを知らなかったのです。

何かいい方法はないかと考えます。

彼は岩屋の入り口から外の谷川を眺めることを好んでいました。

谷川ではメダカの群れが、流れに押し流されまいと必死です。

山椒魚はその様子を見て「不自由千万なやつらだ!」と嘲笑します。

渦に巻き込まれて沈んでいく白い花弁を見ては「目がくらみそうだ」と呟きます。

ある夜、岩屋の中に一匹の小海老が紛れ込んできます。

小海老は山椒魚の横っ腹にしがみついて、卵を産みつけようとします。

岩石と勘違しているようです。

彼はやはり岩屋の外に出たくなりました。

全身の力をこめて岩屋の出口に突進します。

小海老は突然岩が動き出したので驚きます。

やがて海老は事情を知り、失笑をします。

山椒魚はたった2年間うっかりしていただけなのに、穴蔵に閉じ込めてしまうとは横暴だと神に訴えます。

岩屋の外では、水すましや蛙が自由気ままに動き回っています。

彼は暗闇の世界に没頭する以外に方法がありませんでした。

ああ、寒いほど独りぼっちだと叫び、思わずすすり泣いてしまいます。

ある日、岩屋に飛び込んできた蛙を閉じ込めて、外に出られないようにしました。

この蛙は前に山椒魚が羨ましそうに眺めていた蛙です。

山椒魚は一生涯ここに閉じ込めてやるつもりでした。

彼らは激しい口論を始めます。

喧嘩を繰り返しながら、月日は1年、2年と過ぎていきました。

ある夏のこと。

山椒魚と蛙は黙り込んでいます。

そんな中、蛙は不注意にも「ああああ」という小さな嘆息を漏らしてしまったのです。

山椒魚にもその声は聞こえました。

もう、降りてきてもよろしいと言います。

けれども、蛙は空腹で動けなかったのです

山椒魚はおまえは今、どういうことを考えているのかと聞きます。

蛙は遠慮がちに答えます。

今でも別におまえのことを怒ってはいないんだ。

これがあらすじの全てです。

どうですか。

何か感じることがありましたか。

翻訳調の文体

この小説は全体が翻訳調で書かれています。

作家はどうしてそういうスタイルを選んだのか。

よく試験でも訊ねられます。

この話はあくまでも現実ではありません。

内容的には暗いです。

そこを反転したたかったのでしょうね。

ユーモラスな印象をなるべく強めたかったのではないでしょうか。

小説の途中に「いよいよ出られないというならば、俺にも相当な考えがあるんだ」と自分に言い聞かせる言葉が出てきます。

山椒魚はどんな心理状態にいたのでしょうか。

これもよくテストに出ますね。

まさに根拠のない自信です。

強がりといっていいかもしれません。

虚勢を張っているのです。

そうでないと自分を保てなかったものと思われます。

毎日、山椒魚は岩屋の外を眺めているだけです。

Pexels / Pixabay

その山椒魚の状況としてはどんなことが考えられますか。

これも試験の設問によくあります。

自分の現実から目を背けているだけといういうことでしょうか。

この小説を読んでいると、昨今の「ひきこもり」という現実をどうしても連想してしまいます。

あっという間に月日がたち、親が高齢化していく。

いわゆる8050問題です。

80歳の親が50歳の子供の世話をする。

なんとなく強烈なアナロジーを感じます。

井伏鱒二は後年、最後の部分を大幅に書き換えました。

それについてもさまざまな意見があります。

時間のある時に、是非読んで確かめてください。

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頭でっかちでどこにも出られなくなった人間の哀しみにも通じているような気がする今日この頃です。

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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