無常ということ
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は文芸評論家、小林秀雄の文章を読みます。
最近はめっきり減りましたが、少し以前は大学入試の国語の問題といえば、小林秀雄でした。
感覚的な文章が多いので、読解にはかなり苦労しましたね。
ちなみにぼくが東京都の国語科教員試験を受けた時にも、彼の評論が出題されました。
懐かしい思い出です。
現在ではほとんど読まれることがなくなってきているようですが、国語の教科書には今も所収されています。
『文学国語』の教材として載っていましたので、もう一度読み直してみたいと思いました。
この評論は彼の作品の中で、最も有名なものの1つです。
しかしその内容をきちんと理解し、授業をすることは大変に厄介なのです。
なぜなら、若い高校生に「生と死」の対比を教えることは至難だからです。
それ以上に教師が内容を理解できません。
文章の意味が全くわからないというのではなく、真意を理解するのが難しいのです。
腹に落ちるという表現があります。
心から納得するとでもいえばいいでしょう。
そのプロセスがなかなか見えてこないのです。
小林秀雄の文章は、あるところから突然、飛躍します。
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その過程がある意味で、最も心地よい部分でもあるのです。
詩人、中原中也の生涯を知ろうとすると、必ず小林の名前が出てきます。
1人の女性を取り合った仲でもあります。
フランス象徴派の詩の翻訳なども手がけました。
小説家、大岡昇平のフランス語の家庭教師などもしました。
チャンスがあったら、ぜひ彼の訳詩も読んでみてください。
今回の評論には、最初に古文が登場します。
『一言芳談抄』という作品がそれです。
この本は念仏行者の信仰を伝える法語153条を集めたものと言われています。
仮名で書かれた中世の法話を代表する書です。
『徒然草』を書いた兼好法師の愛読書でもあったそうです。
文章をまず味わってください。
この評論の核となる内容を含んでいます。
本文
ある人いはく、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅寺の御前にて、夜うち更け、人しづまりてのち、ていとうていとうと、つづみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候ふ、なうなうとうたひけり。
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その心を人にしひ問はれていはく、生死無常の有り様を思ふに、この世のことはとてもかくても候ふ。
なう後世をたすけたまへと申すなり。云々。
現代語訳
ある人が言いました。
比叡山の日吉大社に、身分を偽って神職の真似をしている宮仕えに不慣れな女房がいたそうです。
七社権現の一つである十禅師の御前で、夜がすっかり更けてから、人が寝静まった後に、ぽんぽんと鼓を打っていたのです。
心を清らかに鎮めている声で、どのようになってもよろしゅうございます、どうかどうか、と声に出して歌いました。
その真意を人からどうしても知りたいと問われて、女房が次の通り話しました。
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あらゆる人間には生死があり、何事も永遠不変ではないといいます。
この世界の有り様を思うと、今生きている現世のことはどのようになってもよろしゅうございます、という気持ちでした。
どうか生まれ変わった後の世での自分をお助けくださいと申しあげたのです、ということだったのです。
生と死
小林秀雄の文章が難解だということは、間違いありません。
しかし魅力に満ちています。
何を論じようとしているのかわからないまま、その中に足を踏み入れてみると、爽やかな風がどこからか吹いてくるような錯覚に襲われます。
なぜ、彼はこの古典を最初にとりあげようとしたのでしょうか
ポイントはどのようなものでしょうか。
主題は女房が、生の世界よりも死後の世界で、救済を望んだことにあります。
彼女はすでに死んだ歴史の人々の方が、かえって生き生きとして感じられると考えています。
現実の世界では人々の生き方があまりに中途半端であることを強く訴えているのです。
この論点がそのまま、小林秀雄の文章の後半に引き継がれています。
彼にとって生涯の大きなテーマは歴史でした。
「歴史とは何か」というのが主題です。
ある日、散歩をしていて、ふと思いついたのが『一言放談抄』の一節なのでした。
生よりも死後の救済を願うという話の重みを感じました。
生と死の対比がそこで見えたのです。
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歴史とは何かということが、「生と死」のかなたにあることに気づいたといってもいいのかもしれません。
多くの人は、歴史上の人々を「過去の人」として扱いますが、しかし彼らは当時まさしく生きていたのです。
自明のことですね。
それに比べると、生きている人間はあまりにも中途半端な形をしていると感じました。
人は生きて死ぬということは誰もが知っています。
しかしその意味を心の底から実感することは、簡単なことではありません。
常なるもの
この文章の最後には次のような表現があります。
———————————-
現代人には、鎌倉時代のどこかのなま女房ほどにも、無常ということがわかっていない。
常なるものを見失ったからである。
———————————-
最後にあるこの言葉が、小林秀雄の認識の叫びなのでしょう。
なぜこうした心境に至ったのか。
それを考えてみる必要がありそうです。
彼は『一言放談抄』を読んだ時、美しいと思ったそうです。
しかし、同時にその裏にあるものを、見失ってはならないとも考えました。
一つの作品に触れたとき、彼らがいかに生き、いかに死んだかを、感じ取るべきなのだと書いています。
女は現世のことより、死後の救済を願いました。
ひるがえって、今生きている人々は、生とは何かということを、ろくに理解しようとしていないのではないか。
その日その日の生活のことばかりにとらわれているのではないか。
それだけの「心構え」を持っているのかどうか。
この文章は、事実を伝えようとするものではありません。
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あくまでも生きることに対する「心のありかた」「感じ方」を述べています。
小林秀雄は最後に「常なるもの」を見失ったと書いています。
全てを解釈しようとする近代以降の考え方を否定しています。
生きるということは、もっとのっぴきならないことに違いない。
その内側を見つめ続けなさいということです。
小林秀雄はよく「思い出は美しい」と言いました。
なぜなら、ぼくらが過去を飾るのではないからです。
過去のほうで、ぼくらに余計な思いをさせないのだ、と言います。
生きている人間は何を考えているのか何をしでかすのか、わかりません。
しかし、死んだ人間は、はっきりしていると強調しています。
歴史には死人しか出てきません。
だから、動じない美しさがあるのだ、とも言っています。
チャンスがあったら、彼の著作を手にとってみてください。
きっと何か得られるものがあると信じています。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。