秀吉と歌
みなさん、こんにちは。
都立高校勤務40年の元国語科教師、ブロガーのすい喬です。
ここ2日間ほど、古典の話を書きました。
今まで扱ったことのないジャンルですが、とても楽しいです。
今度はどの本をご紹介しようかと毎日本棚を探しています。
たまには少し毛色のかわった古文はいかがでしょうか。
皆さん、よくご存知の豊臣秀吉が出てくる作品です。
古文にそんなのがあるのかと思われる方もいるでしょうね。
太閤と呼ばれた秀吉は幼い頃に知的教養を身につけることができませんでした。
やはり勉強というものは、できる時にやっておかなくてはなりません。
足元を見られることになるのです。

今回は典型的な話です。
本のタイトルは『槐記』(かいき)といいます。
この作品は近衛家熙の侍医であった山科道安が家熙から口伝えに教え授けられた言葉や、行状を日記風に記述したものです。
高校ではまず扱うことがありません。
しかしこの段は大変に有名です。
近衛家熙は関白太政大臣基熙の嫡男。
1710年に摂政太政大臣になりました。
和歌、詩文などの文学的造詣の深さはもとより、茶の湯についても独自の境地を開いた人です。
ここにあげたのは聞いたことのない人の名前ばかりでしょうね。
古文の裾野は驚くほど広いのです。
学校ではほんのわずかを学ぶだけ。
豊かな世界に足を踏み入れると、得られるものも大きいと思います。

ちなみに里村紹巴は信長、秀吉の知遇を得ていた当時の連歌師の代表的人物なのです。
細川幽斎は名を藤孝といいます。
足利、織田、豊臣、徳川の乱世を巧みに生き抜いた武人で文人です。
この2人の性格の違いに着目して読んでみてください。
『槐記』原文
稲苗代兼竹が咄かに、太閤秀吉の連歌の席にて、ふとその付合にてこそあるべけれ、
奥山に紅葉ふみわけ鳴く蛍
とせられしを、紹巴が、「蛍のなくといふ証歌は、いさ知らず」と申し上げしに、大いに不興にてありしが、「何でふ、おれが鳴かすに鳴かぬものは、天が下にあるまじ」と広言せられしを、細川幽斎、その席に居て、紹巴に向かひて、「いさとよ、蛍の鳴くとよみ合はせたる証歌あり。
「武蔵野の篠を束ねて降る雨に蛍ならでは鳴く虫もなし」
と申されしかば、紹巴は大いに驚きて平伏し、太閤は大機嫌にてありしよし。
翌日、紹巴すなわち幽斎へ行きて、「さるにても昨日は不調法にて、家の面目を失ひし。
何の集の歌なりや」とうかがふ。
幽斎、「あれほどの人に何の証歌どころぞや。昨日の歌は我らが自歌なり」と申されしよしなり。
「これにては、なくの縁、もつともに聞こゆる。さもあるべきことなり」と仰せらる。
意味がわかりますか。
ポイントはまさに「鳴く蛍」です。

「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿のこゑ聞く時ぞ秋は来にけり」という歌は聞いたことがありますよね。
百人一首では猿丸太夫の作ということになっています。
しかし実際は詠み人知らずのようです。
秋、紅葉とくれば、どうしたって鹿です。
これが文化のかたちというものです。
しかし秀吉は突然「蛍」を持ち出しました。
これにはさすがの歌人紹巴も驚いたようです。
あらすじと訳
稲苗代兼竹の話によると、こんなことがありました。
太閤秀吉が出席した連歌の席で、ちょっと前の句の付合だったのでしょう。
「奥山に紅葉ふみわけ鳴く蛍」
と(秀吉が)詠まれたのを、里村紹巴が「蛍が鳴くという歌に先例があるとは、さて存じませぬ。」と申し上げたところ、(秀吉は)大いに不機嫌であったが、「何であろうと、おれが鳴かせるというのに、鳴かないものが、天下にあるはずがない。」と豪語されました。
細川幽斎が、その席にいて、紹巴に向かって、「そのことだが、蛍が鳴くと詠み合わせた歌の先例があります。
それはつぎのようなものですと言いました。
武蔵野の篠を束ねて降る雨に蛍ならでは鳴く虫もなし
(武蔵野のどしゃぶりの雨の降る夜、雨の中を蛍が光って飛ぶのが見えるが、蛍の他に鳴く虫の気配もないことだ)
と申されたので、紹巴は大変驚いてひれ伏し、太閤殿下はたいそう上機嫌だったそうです。
翌日、紹巴はさっそく幽斎のもとへ行って「それにしても昨日はとんでもない不行き届きで連歌師の面目をつぶしてしまいました。蛍が鳴くというのは何という歌集に入っているのです」とお訊ねしました。

すると幽斎は秀吉程度の人間に何の証歌が必要でしょうか。
昨日の歌は実は私の自作ですと申されたとのことです。
この歌によって鳴くにことよせて表現した「なし」が「証歌なし」に通じて道理にかなっているように思われると家熙様はおっしゃるのでした。
いかがでしょうか。
意味がわかりましたか。
太閤豊臣秀吉の詠んだ「奥山に紅葉ふみわけ鳴く蛍」の句が荒唐無稽であると、律儀な紹巴がとがめ、太閤の不興を買ったところを、細川幽斎がとっさの機転でとりなした話です。
秀吉、紹巴、幽斎、三者三様の人柄をその発言内容から読み取ってください。
秀吉の機嫌をとりなした幽斎のような臨機応変の機転も時には人生の処世術としては必要なのです。
いつの時代も同じか
なぜ秀吉に向かって幽斎は自作の歌を証歌だとする破天荒なことをやってのけたのでしょうか。
「蛍の鳴く」などという証歌があるはずもないことを、教養のない成り上がり者の秀吉にはわからないと侮ったうえで、この場を収めようとしたのです。
いくら厳密に歌の道を説いても始まらないと見抜いたということです。
自尊心の強い秀吉が自分の非を認めることはまずありえないから、いつまでも律儀に証歌の有無にこだわっていると、自分の命もあぶなくなる危険性もありました。
茶人、千利休が切腹を仰せつかったのは、まさに意地の張り合いからです。

細川幽斎は律儀な紹巴を助けるために当座の思い付きで詠んだのです。
暗にたしなめるという効果も同時に持っていたのかもしれません。
これ以上、秀吉の正面からぶつかるとあぶないぞ、という紹巴への警告の意味を発していたのだと考えられます。
人の世を生き抜くには、処世の術が必要です。
あまりに突っ張りすぎると必ずしっぺ返しにあいます。
とはいえ、他人よりどこか抜きんでていないと、いざという時に引き上げてもらうということがありません。
このあたりが1番難しい、人間の生き方の機微なのではないでしょうか。
それにしても太閤秀吉は隋分と舐められたものです。
それに気がつかなかったというのが、やはり悲しいですね。
人間を育て上げることは容易なことではありません。

学問はどこまでやっても終わりがありません。
だからといって、いいかげんなところでやめてしまうと、後に響きます。
そうした人生訓として、この文章を読むことも可能でしょう。
古文の裾野はとても広いものです。
「あはれ」や「をかし」の文学だけではありません。
こういう人の生きざまを説いた文章もあります。
またいつかご紹介できたらと思います。
ちなみに猪苗代兼竹は連歌師猪苗代兼載の子孫。
証歌とは語句、用語法などの証拠となる歌。
根拠として引用する歌のことです。
最後までお読みいただきありがとうございました。