【歌詠みの系譜】古本説話集9話に紫式部と伊勢大輔の魂の交感を見た

和歌は心を揺るがす

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、ブロガーのすい喬です。

40年間、国語を教えてきました。

もちろん、現代文だけでなく、古文、漢文の授業もしました。

今の生徒にとって古文は宇宙人の言葉みたいなもんです。

なんでこんなことをやるのかとよく訊かれたものです。

なぜでしょうね。

ぼくにもよくわかりません。

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日本人の心を知るためだなんて説明してましたけど、本当かな。

少なくとも日本人の美意識についてはかなりわかりますけどね。

特に歌は素晴らしいです。

万葉の時代からずっとです。

和歌には心を揺るがすなにかがあります。

『土佐日記』を綴った歌人紀貫之も『古今集』の序文で、すぐれた歌には誰もが心を動かすと書いています。

今回はそんな話を1つ説明させてください。

確かにすばらしい歌には、人の心を震わせる言霊がありますね。

この歌人の話が所収されている教科書もあるようです。

ぼくは教えた経験がありません。

『古本説話集』がそれです。

読めばその味わいがすぐにわかります。

紫式部がどういう経緯で『源氏物語』を書いたのかという理由も簡単に示されています。

参考にしていただけるとありがたいですね。

紫式部は日本の女性作家の中でもとりわけすぐれた人です。

平安時代、漢文を読むことができた女性は、ほとんどいませんでした。

兄と一緒に勉強させてもらえたというだけで、幸せだったのかもしれません。

兄よりもずっと出来はよかったようです。

それでいて、外へ出ると「一」という文字も満足に書けないような顔をしていたというから、なかなかの人です。

平安の時代を生き抜く知恵をたくさん持っていたのでしょうね。

説話集

『古本説話集』というのは70あまりの話を2巻に収めた説話集です。

昔話の本と考えればいいでしょう。

成立は平安の末期から鎌倉初期です。

上巻の和歌の説話の中にこの話が載っています。

味わいの深い段です。

一部を掲載しましょう。

今は昔、紫式部、上東門院に歌読み優の者にて候ふに、大斎院より、春つ方、「つれづ

れに候ふに、さりぬべき物語や候ふ
」と尋ね申させ給ひければ、御草子どもとり出ださ

せ給ひて、「いづれをか参らすべき」など、選り出ださせ給ふに、紫式部、「みな目慣

れて候ふに、新しく作りて参らせさせ給ひつかし」と申しければ、「さらば、作れか

し」と仰せられければ、源氏は作りて参らせたりけるとぞ。

いよいよ心ばせすぐれて、めでたきものにて候ふほどに、伊勢大輔参りぬ。

それも歌詠みの筋なれば、殿、いみじうもてなされ給ふ。

奈良より年に一度、八重桜を折りて持て参るを、紫式部、「今年は大輔に譲り候らは

む」とて、譲りければ、取り次ぎて参らするに、殿、「遅し、遅し」と仰せらるる御声

につきて、

  いにしへの奈良のみやこの八重桜今日九重に匂ひぬるかな

「取り次ぎつるほどほどもなかりつるに、いつの間に思ひ続けけむ」と、人も思ふ、殿もおぼしめしたり。

めでたくて候ふほどに、致仕(ちじ)の中納言の子の、越前の守とて、いみじうやさしかりける人の妻になりにけり。

実際の文章はもう少し長いです。

ここには2人の歌人が出てきます。

紫式部と伊勢大輔です

紫式部は歌人でありながら、『源氏物語』があまりにも有名なので、むしろ作家としての名の方が通りがいいようですね。

どうしても一度は読みたい本です。

全部を原文でなどというのはとんでもないことなので、ほんの少しいいところだけをつまみ食いするというのも可能でしょう。

現代語訳もたくさんあります。

好きな作家のものを手に取って読んでみると、そこには今と全く違う時間が流れていることがよくわかります。

主な登場人物の生き方を知るだけでも、ずっと人生が豊かになります。

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最後の宇治十帖まで読み通すには現代文でも数か月は必要です。

古文だったら数年でしょうかね。

好きなところを繰り返して読むだけでも、味わいがあります。

是非試みてください。

誰の訳でもいいです。

読むと、人間への愛着が増すと思います。

源氏物語誕生のいきさつ

上東門院というのは藤原道長の子、彰子のことをいいます。

一条天皇の中宮でした。

紫式部がお仕えした女性です。

今の家庭教師のような役割をしていたと考えれば、わかりやすいでしょうか。

中宮にはもう1人定子という方もおりました。

この人に仕えていたのが『枕草子』を書いた清少納言なのです。

あらすじと訳

今となっては昔のことですが、紫式部が上東門院に優れた歌人として仕えていた頃、大斎

院から「退屈でございますので、おもしろい物語などございますか?」と、おたずねがあ

ったので、物語などをお取り出しになって、「どれを、大斎院にさしあげましょうか」な

どと、お選びになったとき、紫式部が、「みんな見慣れたものでございますから、新しく

物語を作ってさしあげなさいませ。」と申し上げたので、上東門院が「それならあなたが

作りなさい」とおっしゃったので、源氏物語を作って、さしあげたということです。

紫式部はいよいよ心づかいの優れた、すばらしい女房として上東門院にお仕えしているう

ちに、伊勢大輔が上東門院に女房として参上しました。彼女も歌人の家系なので、殿(上

東門院の父、道長)はたいそう大切になさいました。

奈良から、毎年一度、八重桜を折って上東門院に持って参るのを、紫式部は、桜をとりつ

いで上東門院にさしあげなどして歌を詠んでいましたが、紫式部が、「今年は、伊勢大輔

に歌を詠む役をお譲りしましょう」と言って、譲りましたので、とりついでさしあげるの

に、殿(道長)が、「遅いぞ遅いぞ」とおっしゃるお声について、伊勢大輔がこう詠みま

した。

いにしへの奈良都の八重桜けふここのへににほひぬるかな

取り次ぐあいだの時間が少ししかなかったのに、いつの間にこんな歌を思いついたのだろうと、そこにいらした人々も思い、殿もお思いになりました。

彼女はすばらしい女性だったので、おやめになった中納言の息子が、越前守になっていて、たいそう優しかった方の妻になったのでございました。

意味がわかるでしょうか。

紫式部がなぜ『源氏物語』を書いたのかという理由がわずかに出てきますね。

当時、紙は大変高くて、普通の人の手に入るようなものではありませんでした。

道長のような権力者でなければ、次々と紙を手に入れることはできなかったと思われます。

摂政関白にまで上り詰めた人を父に持つ中宮彰子の生きざまも見えてくるのです。

この話の中に出てくる「いにしへの」の歌は小倉百人一首にもとられた有名な歌です。

上の句は4つの名詞を格助詞「の」で結んで一気に詠みくだし、「八重桜」でとめて古都の栄光を偲ばせるようなみごとな風景を現出しています。

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下の句ではそれが今まさに平安京の宮廷「九重」で絢爛と輝くさまを詠嘆したのです。

九重というのは宮中の別称なのです。

「いにしへ」と「今日」、「八重」と「九重」という対比によってその輝きが一段と増すように感じられます。

言葉の使い方が実に巧みですね。

古都の桜をたたえ、平安京の繁栄を高らかに詠んだこの歌が披露されると、「万人が感嘆し、宮中が鼓動」したといいます。

誰でもが知っている和歌を短時間のうちに技巧たっぷりに詠んだ伊勢大輔の言語感覚には驚かされます。

古文の世界は実に言葉が豊かだと思います。

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じっくり読みながら内容を味わってください。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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