古典の中の古典
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は高校へ入ったら必ず習う『論語』について考えてみます。
江戸時代などは意味も分からず、ただ読み方だけを習ったという話を聞いたことがありますか。
先生の範読のあと、生徒はただ同じ言葉を繰り返したのです。
そこにどんな深い思想があるのかなどとは、誰も想像しませんでした。
ただ呪文のように唱えていただけなのです。
それが後になって意味がわかると、急に宝のような言葉に変身しました。
さすがに武士の子弟が学ぶ藩校のレベルになると、きちんと解説はしましたけどね。
それでも十分に理解できたのかどうか。
一見簡単そうにみえるものの、とにかく難しいのです。
『論語』は孔子とその高弟の言行を、孔子の死後に弟子が記録した書物です。
儒教の経典としてもよく知られています。
「四書」の一つに数えられているのです。
古典の中の古典といえるでしょう。
これほど多くの人に読まれた本は、それほどにないのではないでしょうか。
内容は確かに簡潔そのものです。
読めばある程度意味が通じます。
しかしその真意を探っていくと、容易なことで本質に迫ることはできません。
通常、書物は知識人のものです。
ところがこの本だけは、多くの市民に受け入れられました。
限りある生を全うするための知恵として、大いに活用されたのです。
考えてみると、大人の本なのです。
孔子の人柄がそのまま、言葉に反映されています。
生き方の教科書
『論語』を読んでいると、心が静かになっていくのを感じます。
人生の指針に満ちているのです。
座右の銘にするのもいいでしょうね。
迷ったらここに戻ると決めてみてはどうでしょうか。
高校で習うものは全て名言です。
少し長いものもありますが、ぜひ覚えてください。
無理に使う必要はありません。
あなたの心の中に深く潜ませておくだけでいいのです。
『論語』の本は実にたくさんあります。
とにかく読みやすいものを一冊手に入れましょう。
机のわきに置いておけば、それでいいのです。
時間があったら、時々めくってみる。
ちなみにぼくは2冊持っています。
愛読書は齋藤孝訳の『論語』(ちくま文庫)です。
活字が大きくて、非常に読みやすく、解説もシンプルです。
彼はこの本を1年半かけて翻訳したとあとがきに書いています。
全て手書きで時間をかけてやったそうです。
『論語』は2500年前の本です。
だからといって手が届かないものであるかのような、扱いはしなかったそうです。
そのうち、孔子の気持ちが乗り移ってくる瞬間が、何度かあったとか。
人間として豊かであるというのは、社会的な地位と必ずともリンクするワケではありません。
だれにも知られていなくても、すばらしい人はいくらでもいます。
人間としての魅力を磨きたいと思ったら、『論語』に手を伸ばしてみてはどうでしょうか。
行き詰まった時の休み処と考えることも可能です。
学而
『論語』は学而から始まります。
「学而」の編は16の節で構成されており、ものごとを学ぶ姿勢や人としての生き方あり方の基本について述べられています。
その最初にあるのが次の文です。
子曰く、
「学びて時に之を習ふ。亦説(よろこ)ばしからずや。朋有り、遠方より来たる。亦楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや。」と。
現代語訳
孔子はおっしゃいました。
習ったことを機会があるごとに復習し身につけていくことは、なんと喜ばしいことでしょうか。
友人が遠方からわざわざ私のために訪ねてきてくれることは、なんと嬉しいことでしょうか。
他人が自分を認めてくれないからといって不平不満を言うことはありません。
なんと徳のある人ではないでしょうか。
学ぶことの本質はここに全てあらわれている気がします。
自分が好きなことを学んでいると、それを通じて多くの人と知り合いになれます。
中には遠くからやってくる人もいるのです。
他人が自分を認めてくれないからといって不満などを述べている暇はありません。
それこそが学ぶ者の生き方だというのです。
巧言令色
巧言令色、鮮(すくな)し仁。
これも怖い言葉です。
口ばかりがうまく外見を飾る者には、ほとんど仁はないといっています。
「仁」というのは難しい概念ですね。
一言でいえば、「他人に対する思いやり」ということです。
儒学の徳の中でも、最も大切な考え方です。
よく「仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌」という言葉を使います。
あらゆる徳目のトップに来るのが「仁」なのです。
「巧言令色」は四字熟語として現代でも使われています。
自らを戒めるためのいい言葉ですね。
さらによく知られている言葉に次のようなものがあります。
吾れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして迷わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰(こ)えず。
論語が由来の年齢を表す言葉です。
15歳 志学(しがく) 30歳 而立(じりつ) 40歳 不惑(ふわく) 50歳 知命(ちめい) 60歳 耳順(じじゅん) 70歳 従心(じゅうしん)と言います。
過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し
この表現もよく聞きます。
やり過ぎてしまうことは、やり足りないことと同じように良くない。
何事もバランスが大切ということなのです。しかしこの感覚を磨くのは、それほどに簡単なことではありません。
子曰く「人の己を知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患うるなり。
先生がおっしゃいました。
自分をわかってもらえないと嘆くより、人を理解していないことを気にかけなさい。
どの言葉も響きますね。
自分がいかに不十分であるのかということだけがつらいです。
『論語」はどの文言をとっても、貴重なやさしさに満ち溢れています。
ぜひ、自分の手元にいつもおいておいてください。
きっと心が折れそうなとき、あなたを包んでくれることと信じています。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。