【日本文化私観・坂口安吾】魂を揺り動かす日本の美とはどのようなものか

日本文化私観

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は坂口安吾の「日本文化私観」について考えます。

今年から高校2年の選択科目になった「論理国語」の教科書に所収されていました。

ぼく自身、実際に授業で扱った経験はありません。

4単位になり、かなり評論の内容が濃くなりましたね。

それだけ、授業の厚みが増えたのではないかと思います。

教師の立場からいえば、かなりの知識が必要です。

準備をきちんとしないと、対応できないような気がします。

この評論が発表されたのは1942年です。

彼の代表作『堕落論』と並び称されるエッセイなのです。

時代背景を考えてみましょう。

まだ太平洋戦争は終わっていません。

この文章は1936年に出版された、ブルーノ・タウトの『日本文化私観』に対抗する形で発表されました。

タウトは日本の美について建築家の立場から、さまざまなことを述べました。

桂離宮や伊勢神宮をほめちぎった話は、聞いたことがあるかもしれません。

その後、日本美術に対する権威として君臨したのです。

日本人の中にあった国粋主義的な傾向にも拍車がかかりました。

欧米人の評価ではあったものの、日本の美を本当に理解した人として、評価されたのです。

それに対して、坂口安吾は自分独自の解釈を加えました。

わざわざタウトの書いた著作と同じタイトルまでつけたのです。

内側からふつふつと煮えたぎった反骨精神が、このエッセイを書かせたのではないでしょうか。

具体的には、何に反応したのか。

タウトが評価した「日本文化」と呼ばれるものが、本当に日本の伝統的なものであるのかという疑問です。

明らかに、そんなものではないという反論が、この文章には潜んでいるのです。

真の美はどこにあるのか

坂口安吾は、美にとって本当に必要なのは「実質」だと何度も述べています。

実質とはなんのことでしょう。

それは必要性なのです。

人間が心の底から必要とするものの中にしか、美はないと彼は考えました。

頭の中で考え、これみよがしにつくりあげたものには、人を感動させる力がないとしたのです。

別の言葉でいえば、俗なるものの中にも美はあるとしました。

大切なのは美的でありたいという恣意性がないということです。

必要なものを作り上げていく時に、ただ悲願や情熱があればそれで十分なのです。

心のそこから湧きあがってくるものだけを大切にしようとしました。

具体的に彼が美しいと感じたものは、小菅の刑務所であり、佃島のドライアイス工場でした。

さらに軍艦や、鍛え抜かれた金メダリストの肉体だったのです。

小菅刑務所には何の美的装飾もありませんでした。

ただ刑務所としての機能をつきつめた形そのものだったのです。

それに作家は心を動かされました。

タウトが賞賛したような観念の美は不必要だったのです。

機能美があれば、それで十分でした。

「美しさのための美しさ」は所詮、無力なものに見えました。

空虚だったのです。

坂口安吾の文章を少し読んでみましょう。

本文

僕の仕事である文学が、全く、それと同じことだ。

美しく見せるための一行があってもならぬ。

美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。

どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。

ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。

そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。

実質からの要求を外れ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もう、たわいもない細工物になってしまう。

これが、散文の精神であり、小説の真骨頂である。

そうして、同時に、あらゆる芸術の大道なのだ。

問題は、汝の書こうとしたことが、真に必要なことであるか、ということだ。

汝の生命と引換えにしても、それを表現せずにはやみがたいところの汝自らの宝石であるか、どうか、ということだ。

そうして、それが、その要求に応じて、汝の独自なる手により、不要なる物を取去り、真に適切に表現されているかどうか、ということだ。

百米メートルを疾走するオウエンスの美しさと二流選手の動きには、必要に応じた完全なる動きの美しさと、応じ切れないギゴチなさの相違がある。

僕が中学生の頃、百米の選手といえば、痩せて、軽くて、足が長くて、スマートの身体でなければならぬと極っていた。

ふとった重い男は専ら投擲の方へ廻され、フィールドの片隅で砲丸を担いだりハンマーを振廻していたのである。

日本へも来たことのあるパドックだのシムプソンの頃までは、そうだった。(中略)

見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。

すべては、実質の問題だ。

美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。

要するに、空虚なのだ。

そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。

法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。

必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。

我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。

法隆寺をとりこわす

最後の文章の一節は激しいですね。

法隆寺が壊されても構わないという内容には、驚かされます。

なぜそこまで彼は主張したのか。

時代の背景ももちろん、勘案しなくてはいけません。

私たちは感性に訴えかけてくる何ものかに対して、確かに「美しい」と感じることがあります。

人間の高潔な行為や自然の見事な法則にです。

「美」とは何なのでしょうか

これは難問中の難問です。

対象になるものの性質なのか、それとも認識する人間の問題なのか。

それもよくわかりません。

「美学」という哲学の領域はそれを検証していくためのものなのです。

「実質」を信じた坂口安吾は、最後まで空虚な美しさをを認めようとはしませんでした。

その背景には何があるのか。

一言でいえば、人間に対する信頼かもしれません。

必ず人間はそこに最も必要な美を作り生み出し、それを認識するという考え方です。

このエッセイは、ブルーノ・タウトの言う「美」に対する正面からの挑戦状です。

アンチ・テーゼと呼んでもいい。

西洋人の「発見」した日本的美の中に、嘘寒さを感じたに違いありません。

この文章を小論文の課題にしたら、あなたには何をどう書きますか。

日本の美の根底には何があるのか。

一考する価値のある大きなテーマです。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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