阿倍仲麻呂の歌
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は百人一首で有名な阿倍仲麻呂の歌について考えてみましょう。
どんな人だったか、御存知ですか。
阿倍仲麻呂は、養老元年(717年)、遣唐使として唐に渡りました。
総勢557人の大使節団でした。
当時は今と違って海を渡るということそのものが、難事業だったのです。
唐から何度も日本に来ようとした、鑑真和上の話は聞いたことがありますね。
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彼は仏教伝来のため、6度も渡航に失敗し、その結果目が見えなくなってしまいました。
それでもめげずに日本にやってきたのです。
遣唐使も同様です。
途中で難破し、亡くなった人や目的地でないところへ辿り着いた人々もたくさんいたのです。
唐は東洋世界の中心でした。
文化が花開き、栄華を極めていたのです。
彼は学問を修め、最難関の科挙の試験に合格して進士となります。
科挙とは中国が長い間行ってきた、国家公務員上級試験のことです。
そこで唐の皇帝玄宗に仕え要職を歴任しました。
その秀才ぶりを発揮したことで、玄宗皇帝に気に入られたのです。
異国の地で生まれた外国人としては、破格の厚遇を得たワケです。
しかしそのため、天平5年(733年)、遣唐使達が帰還するのにあわせ、日本への帰国を望んだものの果たせませんでした。
帰国が許されたのは、実にその36年後だったのです。
土佐日記になぜ
いよいよ出航だという時、異国から月を眺め、かつて見た故郷の三笠の山の月と重ね合わせて故郷を偲んだ歌があります。
それが百人一首に載せられている歌なのです。
天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも
1度くらいは聞いたことがありますね。
ところが船は出航したものの、途中、暴風雨に見舞われ難破してしまいました。
彼ははるか南のベトナムに漂着し、そこから再び唐の都、長安へ戻りました。
結局、玄宗・粛宗・代宗3代の皇帝につかえ、73歳で亡くなったのです。
日本に生きて戻ることはありませんでした。
その彼の歌がなぜ『土佐日記』に出てくるのか。
ここが最大の不思議ですね。
『土佐日記』は紀貫之が、任国の土佐から京都へ戻るまでの旅日記です。
55日間の船旅の記述が続くのです。
遣唐使の人達がはやく日本に戻りたいという気分と、似ていないでしょうか。
貫之の一行は13日以来、天候に恵まれずずっと室津にとどまっているのです。
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都が恋しくて、一刻も早く帰りたい。
しかし既に7日間も同じ所にいます。
焦りと望郷の思いは募る一方です。
その気持ちを考えた時、阿部仲麻呂が唐で日本を恋しく思って詠んだ歌のことが、貫之の脳裡をよぎりました。
もとの歌の初句は「天の原」です。
しかし、ここではその時の状況に合わせて「青海原」と変えています。
「月の影は同じことなるべければ、人の心も同じことにやあらむ」と貫之は書いています。
原文を読んでみましょう。
船の中にいる人たちの心の様子が見て取れます。
本文
二十日。
昨日のやうなれば、船出ださず。
皆人々、憂へ嘆く。
苦しく心もとなければ、ただ日の経ぬる数を、今日幾日、二十日、三十日、と数ふれば、指も損なはれぬべし。
いとわびし。
夜は寝も寝ず。
二十日の夜の月出でにけり。
山の端もなくて、海の中よりぞ出で来る。
かうやうなるを見てや、昔、阿部仲麻呂といひける人は、唐土に渡りて、帰り来ける時に、船に乗るべき所にて、かの国人、馬のはなむけし、別れ惜しみて、かしこの漢詩作りなどしける。
飽かずやありけむ、二十日の夜の月出づるまでぞありける。
その月は、海よりぞ出でける。
これを見てぞ、仲麻呂の主、
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「わが国に、かかる歌をなむ、神代よりも詠ん給び、今は、上中下の人も、かうやうに別れ惜しみ、喜びもあり、悲しびもある時には詠む。」
青海原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも
とぞ詠めりける。
かの国人、聞き知るまじく思ほえたれども、言の心を男文字に、さまを書き出だして、ここの言葉伝へたる人に言ひ知らせければ、心をや聞き得たりけむ、いと思ひのほかになむ愛でける。
唐土とこの国とは、言異なるものなれど、月の影は同じことなるべければ、人の心も同じことにやあらむ。
さて、今、そのかみを思ひやりて、ある人の詠める歌、
都にて山の端に見し月なれど 波より出でて波にこそ入れ
現代語訳
20日。〈注:承平5年(935年)1月20日〉
昨日と同様の悪天候なので、船を出すことができません。
人々は皆、心をいためて嘆息しました。
あまりにつらくじれったいので、ただもう出発してからの過ぎ去った日数を、今日で何日、20日、30日と数えるので、指も傷んでしまいそうです。
とてもつらいです。
夜は眠ることもできません。
眠れないままでいると、20日の夜の月が出ていました。
山の端もなく、海の中から月が出て来ます。
このような光景を見てのことなのでしょうか。
ふと思い出したことがあります。
昔、阿部仲麻呂が帰国の途に就く時、人々は送別の宴を催してくれたという話です。
別れを惜しんで、詩まで作ってくれたとか。
それだけでは名残が尽きなかったのでしょう。
20日の夜の月が出るまで、そこにいたというのです。
その月は、今夜と同じく海から出ました。
それを見て、仲麻呂が、
「私の国では、和歌を神もお詠みになります。今では身分の区別もなく、どんな人でも、このように別れを惜しんだり、うれしいことがあったり、悲しいことがあったりする時に詠むのです。」
と言って、つくった歌がこれです。
青々とした大海原をはるかに遠く見渡すと、海の上に月が出ています。
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この月はかつて春日の里にある、三笠山に出ていたあの月と同じなのでしょうね。
唐の人は、和歌を聞いてもわからないだろうと思われましたけれど、仲麻呂は歌の意味を、漢字で書きました。
そしてさらに日本の言葉を習い覚えている人に、趣きを話して聞かせたところ、歌の意味を理解できたのでしょう。
みなが意外なくらいに褒めてくれたということです。
かの国と日本とでは、言葉は違っているけれども、月の光はやはり同じものです。
人の心もきっとむ同じなのでしょう。
今、その当時のことを思いやって、私(貫之)も歌を詠みました。
都では、山の端から出て山の端へ入るのを見た月ですが、ここではその月が、波間から出て波間に入ってゆくことですよ。
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三笠の山にかかる月は、平城京に住んでいた歌人にとっては、心を和ませる命の風景だったことがよくわかりますね。
当時の船旅の苦労を想像してみてください。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。