小説の構造
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は小説というものの構造について考えてみます。
目的は、作家の自我がどこにあるのかという昔からのテーマを明らかにすることです。
そんなことを考えてみて何になるのか。
ある意味、もっともな問いかけですね。
しかし、この命題はずっと昔から言い続けられてきました。
日本には「私小説」(わたくししょうせつ)という特異なジャンルがあります。
ご存知でしょうか。
元来、小説というのは、作家自身の体験を色濃く反映しているものには違いがありません。
特に、日本の場合はそれが極端だったといえます。
私小説と呼ばれるものには基本的な型があります。
第一に主人公は作者本人か、またはそれと明確に重なる人物に限定されます。
第二にフィクションというよりも、その人が経験した事実や心情などの告白を基本にしている作品かどうかという点です。
私小説は大正期から昭和初期にかけて、純文学の中心的存在となりました。

代表的な作家は誰で、作品はどのようなものなのでしょうか。
文学史的にいうと、最初に挙げられるのは田山花袋(かたい)の『蒲団』です。
その他、誰もが知っている作家としては、志賀直哉です。
田山花袋の名前は、日本文学を専攻している学生ぐらいしか知らないはずです。
『蒲団』は特異な小説です。
ある作家のところへ弟子入りを志願してきた女学生との関係を描写した作品です。
さまざまな事件のあと、最後に彼はその女学生を破門します。
その日の夜、下宿させていた二階の部屋に赴き、夜着に顔を押しつけて、女の匂いをかぎ、彼女が用いていた蒲団を敷いて顔を埋めて泣くシーンがクライマックスです。
かなり露悪趣味的な作品ともいえますね。
しかしこの作品は大変センセーショナルな受け入れられ方をしました。
虚構性がほとんどなかったのです。
まさに彼の身辺に起こった出来事をそのまま描写した小説として認識されました。
志賀直哉も『和解』『暗夜行路』などで、父親との関係をありのままに描いています。
父との問題が解決したのち、彼の書くべき主題はほぼ消えたと言われています。
それ以後は心境小説と呼ばれる短編やエッセイしか執筆しませんでした。
今回、文学作品における「私」のいる場所について考えようとした際、次のような文章に出会いました。
参考文献として文学研究家、安藤宏氏のものを掲載します。
演技する「私」
一般に小説の語り手が「私」で作者その人を連想させる場合、我々は作者自身の実体験の報告、と思って小説を読んでしまいがちである。
主人公に小説を書いた人の生き方を重ね合わせ、作者がどのような人だったのかに思いをめぐらせてみる。
というのはある意味では自然な読み方で、これが一概に間違いであるとは言えない。

しかしここで、小説表現のおもしろさをより深く味わうために、あえて発想を転換してみることにしよう。
仮に小説の書き手である実在の人物が主人公であるように書かれていたとしても、作中の「私」は現実の作者とイコールではなく、虚構の「作者」を自ら演じ、それを絵解きにして小説を読むよう、読者をいざなっているのだと考えてみることはできないだろうか。
例えば太宰治に『恥』という短編小説がある。
主人公の女性は一読者として、戸田という小説家の作品を軽蔑しつつも、内心惹かれるものを感じている。
彼女は小説を通して戸田の身辺の事情、醜い容貌、貧困、吝嗇、病のことなども全て知悉していると信じている。
見るに見かね、もう少し健康と人格の向上に努めるよう助言する手紙をしたためたりなどもしていたのだが、ある日、意を決して本人の家を訪ねたところ、小説とはあまりに違う端正なたたずまいに驚いてしまう。
戸田は自分の小説は全てフィクションなのだとあたりまえのように語り、主人公は大恥をかくのである。(中略)
こうなると、読者は主人公に作者を重ねてほしい、という要求と、重ねないでほしい、という要求を同時に発信されているようで、どうしていいか困ってしまう。
そして恐らくはこうした矛盾するシグナルにこそ、虚構が虚構たるゆえんが隠されているのではないだろうか。(中略)
不特定多数の読み手がそれぞれ密室で書物を享受する近代の活字文化にあっては、ある内容が「小説」となるいきさつを書き手と読み手が共有するための「場」が、作品それ自体の中にくくり入れられなければならない。
その際、一人称の「私」は叙述の中を自由に生きかい、物語と読者との間をつなぐ「トリックスター」(道化役)の役割を果たすことになるだろう。
虚構の本質
書店にいけば、本当にたくさんの小説がありますね。
そのどれもが作家たちによって書かれたものなのです。
その中で長い命を与えられた作品は本当に幸せです
しかしあっけなく消えていってしまう小説が大半です。
作家は作品のどこに潜んでいるのでしょうか。
今日、登場人物が、作家本人であると考える読者はあまり多くないのではないでしょうか。
もちろん、そこに書き手の経験や思想が重なっているのは当然のことかもしれません。

しかし私小説のように、作者と作品を重ねて読むということはあまりないような気がします。
大学などではいくつかの方法を使って、小説を分析しています。
たとえば、ゼミナール単位で小説の表現分析を徹底して行うのです。
分析の対象は登場人物、語り手、作者です。
1つの作品の中で語り手はどのような役割を果たしているのか。
どの立場から書かれているかということです。
作者は当然、自分の観点を別に持っています。
しかしそれをそのまま作品に重ねることはしません。
登場人物の中の誰かに、その役割を任せるのです。
わかりやすい例が夏目漱石の『吾輩は猫である』の主人公「猫」ですね。
章を追うごとに猫の視点がどう変化していくのかを細かく見て分析していくとさまざまな要素がみえてきます。
作者の立ち位置と登場人物の関係がはっきり浮き上がってみえるのです。
より深く味わうために
近年の小説は一人称の「私」と作者を同一視するのが難しくなりつつあります。
特に小説で語り手が「私」の場合、読者はそれを作者自身の体験の語りとつい捉えがちです。
しかし、太宰治の『恥』という作品のように、完全に読者が裏切られるという結果もあります。
その程度の虚構は作家にとって朝飯前と呼べるのかもしれません。
確かに主人公に作者の人生を重ねるのは、自然な読み方です。
ところが最近の創作を読む限り、そう単純にはいかなくなってしまったというのが本当のところでしょう。
小説よりも、現実の出来事の方が先行しているケースがあまりにも多いのです。
それだけに、作家は複雑な時代の中に深く入り込んでいかざるを得ません。
当然、殺人や暴行まで犯す人間を描くこともよくあります。
読者はまさか、その犯行を企てたのが、作家本人だとは想像さえしないはずです。
作中の「私」は、たとえ作者に似ていても現実の書き手そのものではないという事実を抑えておくのは半ば当然です。
作者が虚構の人物になりきり、演者として行動するパターンが主流なのです。
そこには小説を読むときの大切な前提があります。

作者と重ねて読んでほしい気持ちもあるものの、必ずその正反対のシグナルである「重ねないでほしい」という願望をかなえなくてはなりません。
フィクションは現実のようでいて、現実ではないという二重性を持っているのです。
「私」は既に作者本人とは限らないところまできました。
そのため、読者は「重ねようとしつつ、重ねない」という作業をし続けなければなりません。
逆にいえば、その矛盾の作業の中に小説の面白さがあるとも言えます。
「私」と書かれている文章を単純に読み取ってはいけません。
そこにある仕掛けを読み取ることで、創作物の持つ深みにより入り込んでいけるのです。
今回も最後までお読みくださり、ありがとうございました。
