違和感の本質
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は哲学者、小林康夫氏の文章を参考にしながら、違和感を持つことの重要性について考えてみます。
例えば、ある時、知らない人の集団にポツンとあなたがおかれたとしましょう。
入学式、入社式、あるいはさまざまなパーティ、その他の会合などをイメージしてください。
本来、人間の行動は未知との遭遇ばかりです。
慣れない場所に立たされた時、なんともいえない息苦しさを感じることがありますね。
自分がそこにいることの意味がすぐに理解できないからです。
その集団に承認されている感覚もないまま、じっと佇んでいるのは苦しいです。
誰か知り合いを早くさがしたい。
少しでも自分のことを知っている人を探して、自分のアイデンティティを早く確立したい。
誰もが同じことを考えます。
しかしそう簡単にものごとは進みません。
食事をしてもあまりおいしいとは感じず、はやくその場を抜け出したいと思うことがあるものです。
パーティならば、その会場から出ればなんとか息をつくことができます。

しかしこれがあなたの人生そのものだったら、どうなるのでしょうか。
生きている限り、その場に留まらなくてはならないのです。
自分にとって十分に把握できない人間関係の中にいたら、どうなるのか。
考えただけでもぞっとしますね。
これを宿命的なものだと考えるのか。
それとも自分の性格のせいだと諦めるのか。
大きな岐路に立たされます。
考えてみれば、人間はいつもこうした違和感の中で生き続けなければならない生物なのかもしれません。
ギリシア神話の王、シジフォスはそれが人の生きる意味だと考えたのです。
巨大な岩を山頂まで押し上げようとするものの、岩は頂上の手前で転げ落ちてしまいます。
彼は永遠に同じ作業を繰り返す宿命をになうことになったのです。
小林氏の文章を読んでみましょう。
参考文
自分と世界の関係が、鳥が空を飛んでいるようにはぴったりと感じられない。
ほんの僅かな、しかし自分ではどうしようもない宿命的なズレ。
自分がこの世界にいるということがとても不思議な、奇妙なことに思えてくるのだ。
同時に強い孤独感が押し寄せてくる。
周りには家族も友達もいるが、「自分一人でここに生きている」という感覚だ。

知らないふりをしてはいけない。
よく思い出してほしい。
感じた覚えがきっとあるはず。
けれども実はこの感覚こそ、あらゆる未来の「種」を生み出す起点にほかならない。
鳥は本当に自由なのだろうか。
私はそうではないと思う。
鳥はいわば空の中に閉じ込められている。
魚も同様で、水の中に閉じ込められている。
鳥は空を「空」とよばず、魚も水を「水」と名付けることはない。
人間がするようには自分の住む世界を対象として捉えることがないからだ。
人間は言葉を用い、空を「空」とよび、海を「海」と名付けた。
いわば世界と自分をはっきりと分けて認識している。
その意味で人間は世界に閉じ込められてはいない。
言い換えれば、人間は、鳥や魚と同じような意味では「自然」の中に生きていない。
おそらくこのことが、人間、とりわけ世界と自分との間にズレを感じる理由だ。
『世界をつくり替えるために』小林康夫
閉じ込められている感覚
人は言葉を持っています。
それが認識のための最も力強い道具でしょうね。
生まれたばかりの赤ん坊をイメージすればすぐにわかります。
彼らにとって世界は混沌そのものです。
空間の認識もないのですから、世界には当然形がありません。
しかしそれが数か月たつと、あっという間に母親の存在をきちんと知り、言葉の原型を呟き始めます。
この短い期間にどれだけの学習をすることでしょうか。
わずか1年後には、体重が3倍になり、言葉を発します。
世界の形が色濃く浮き彫りになっていくのです。
そして、数十年の後、人として複雑な思考に耐えるだけの言語能力や身体能力を持ちます。
魚は水の存在を知りません。
鳥は空の広さを考えたこともないのです。

しかしそこから人の苦悩が始まります。
宇宙の果てまでを想像し、自らの死が避けられないことを知るのです。
そこからシジフォスと同じ苦しみが始まります。
せっかく山の上まで転がしていった巨岩は坂を転がり落ちていきます。
再び、石に手をかけて同じ作業を繰り返すのは、ばかげているのでしょうか。
不条理という言葉は彼の行為のためにあるのかもしれません。
世界とのズレ
何かが違うという感覚は貴重なものですね。
そこに創造のためのカギがあるような気がします。
空白感といっていいかもしれません。
世界と自分との間にある言葉にできないズレをなんとか埋めたい。
そして少しでも心地のよい平安な場所に辿り着きたい。
そのために人は創造していきます。
もちろん、誰もが同じことをするわけではありません。
あらゆる芸術は、その不安や空虚を抹殺するために存在しているのかもしれないのです。
誰にとっても共通なものなどありません。
誰もが自分と世界とのズレを修正したいと叫ぶこと。
その連続が、新しい何かを生み出すのでしょうね。
ただしそれで満足するということは、多分ないのです。
その不満が再び、次のものを生み出す。
自分が生きていることの意味を探り当てるために、人は呻き苦しみながら、何かを創り出していくのに相違ないのです。

もしかすると、それは宗教、彫刻、舞踊、音楽、文学だったりと多種多様な形をとるのかもしれません。
シジフォスと同じように、一生続く重い労働の可能性もあります。
世界の形を自分の目で確認し、認識したいという欲望はだれにとっても真実のものです。
そのために言葉もあり、踊りも歌もあるのです。
生きていくことは、ズレとの距離を測る作業のような気さえしてきます。
花は咲こうとして咲いているわけではありません。
人も同じように世界への認識を、無限に望んでいるのでもなさそうです。
あえていえば、それは業(カルマ)です。
この世に生まれた故に担ってしまった領域を示す表現なのです。
諦念ととともに、不条理として引き受けざるを得ないのかもしれませんね。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
