「折たく柴の記・新井白石」人生の歩みを振り返りつつ後の世の人に伝える

折たく柴の記

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は一人の人物を取り上げましょう。

新井白石は(1657~1725)は、江戸時代中期を代表する儒学者、政治家、歴史家です。

学問に優れていただけでなく、実際に幕府の政治改革を行った人物としてよく知られています。

将軍徳川家宣、徳川家継に仕え、幕府改革に携わりました。

「知識を現実の政治に生かした学者」の代表的存在といえる人です。

父は武士でしたが、主君が改易されたため家は困窮し、幼いころから苦労の多い生活を送りました。

非常に聡明で、漢字を覚えるのが早かったようです。

成人後、儒学者の木下順庵に弟子入りしました。

歴史、政治、外国事情まで幅広く学び、「学問は世の中のために役立てるもの」という考えを身につけていったのです。

それにしてもこの本のタイトルはユニークですね。

意味がわかりますか。

命名の由来はどこにあるのでしょうか。

「折りたく」という表現は「折って焚く」という言葉からきています。

つまり柴(薪)を折りながら、火を焚き、苦労して学問をするという行為を象徴化した表現なのです。

自らの人生をゆっくり回顧した本と考えればいいのではないでしょうか。

この表現は新古今集にある後鳥羽院の歌を踏まえています。

思ひ出づる 折たく柴の 夕煙 むせぶもうれし 忘れがたみに

亡き人をしのんで焚く柴の煙に涙してむせぶことさえも、故人を思い出すための忘れ形見としてとても嬉しい、というのがこの歌の意味なのです。

愛する者を亡くした悲しみを詠んだ哀傷歌ととらえてください。。

白石にとって忘れがたい人というのはいったい誰なのでしょうか。

彼は父57歳、母42歳の時の子です。

ここでは、彼の父母のことだと考えるのが当然だと考えられます。

書き出しの部分を少し読んでみましょう。

本文

むかし人は、いふべきことあればうちいひて、その余はみだりにものいはず、いふべきことをも、いかにもことば多からで、その義を尽くしたりけり。

我父母にてありし人々もかくぞおはしける。

父にておはせし人のその年七十五になり給ひし時に、傷寒をうれへて、事きれ給ひなんとするに、医の来りて独参湯(どくじんとう)をなむすすむべしといふなり。

よのつねに人にいましめ給ひしは、「年わかき人はいかにもありなむ。よはひかたぶきし身の、いのちの限りあることをもしらで、薬のためにいきぐるしきさまして終りぬるはわろし。

あひかまへて心せよ」とのたまひしかば、このこといかにやあらむといふ人ありしかど、疾喘(しつぜん)の急なるが、見まゐらするもこころぐるしといふほどに、生姜汁にあはせてすすめしに、それよりいき出で給ひて、つひに其病癒え給ひたりけり。

後に母にてありし人の、「いかに、このほどは人にそむきふし給ふのみにて、また物のたまふこともなかりし」ととひ申されしに、「されば、頭のいたむこと殊に甚しく、我いまだ人にくるしげなる色みえしこともなかりしに、日頃にかはれることもありなむには、しかるべからず。

又世の人熱にをかされて、ことばのあやまち多かるを見るにも、しかじ、いふことなからむにはと思ひしかば、さてこそありつれ」と答へ給ひき。

これらのことにて、よのつねのことども、おもひはかるべし。

かくおはせしかば、あはれ、問ひまゐらせばやとおもふことも、いひ出でがたくして、うちすぐる程に、うせ給ひしかば、さてやみぬることのみぞ多かる。

現代語訳

昔の人は、話すべきことがあればはっきり話して、その後は、むやみに口を開くことなどはありませんでした。

話すことにしても、決して言葉数を多くしたりせず、言うべき内容を伝えたものです。

私の父母であった人々もそのようでした。

父が75歳のとき、傷寒(腸チフス)を患って、今にも死にそうになったことがありました。

その時、医者は独参湯(漢方の気付け薬)を勧めました。

ところが、父が常日頃から、人に戒めて言っていたことというのが、この言葉だったのです。

「年の若い人はどうにでも変わるだろうけれども、高齢の身になっていながら、人の命に限りがあることをも知らずに、治そうと薬を求めて、苦しんで生きながらえて寿命をまっとうすることは、感心しないことだ」

「そのことを十分にこころがけておきなさい」

そこで独参湯の薬を飲ませることはどうしたものかと懸念する人もありましたが、喘息の発作が急に起こって、見舞っている方も心苦しいほどだったので、生姜汁に合わせて独参湯を飲ませたところ、それから快方に向かっていき、病が完治しました。

後になって、母は「今度のことではただ伏せっているばかりで、なぜ口を開こうともしなかったのですか」と、父に問いかけたそうです。

「実を言うと、あのときは、頭の痛みがことにひどくて、私はこれまで他人に苦しそうな顔色を見せたことも無かったぐらいだったのだ。

日頃とまったく変わった状態になってしまってね。そうなると、普段のように話すべきことを話すというわけにもいかなかったからだよ。

また世間の人が、高熱の症状に冒されて、言葉の間違いが多くなることを見てきているので、もし話すことがないなら話すには及ぶまいと思ったのだ。」と父は答えたのでした。

父への敬愛

一見するとずいぶん一徹で頑固な父親に見えますね。

現代にはあまりいそうもないような気がします。

しかし世の中にはこんなことも確かにありそうです。

たとえば、こう言えばどうだろうかとか、ああ、質問しておきたいことがひとつあったなどと頭に突然浮かんだとしましょう。

しかしなんとなく言い出しにくくて、そのまま言わないでおくうちに、問題がいつの間にか解決してしまうなどいうこともあります。

むしろ、言わないうちに終わってしまうことのほうが案外多いのかもしれません。

それを次々と言葉に出すと、ただのうるさい人になってしまう怖れもあります。

この文章は父母の最期の様子を通して、人としての生き方や死に方を語っています。

短い文章から、父親が日頃どのような考えを持っていたのかを十分に推し量ることができますね。

白石が後悔しているのは、父母からもっといろいろ教えてもらえばよかったということです。

あのことも尋ねたい、これも教えてもらいたいと思うことがあっても、なかなか言い出せないまま時が過ぎてしまったようです。

こういうことはよくあります。

父の死生観の基本は、老いてまで無理に延命しようとはしないということでした。

病気であっても他人に苦しむ姿を見せまいとしたこと。

熱で正気を失い不用意な言葉を口にすることを恥と考え、黙って耐えたこと。

これを読むだけで、強い自制心と武士らしい品格を備えた人物であることがよくわかります。

新井白石の文章全体を通じて感じることは、誠実であれということに尽きます。

どんなに苦しい時にも品位を失わないという意志を持ち、学問を大切にしなさいという強い意志でした。

儒学の思想だけでなく、「学問は世の中のために役立てるもの」という考えを身につけたことが幕政の改革につながったのでしょう。

彼は特に海外へ流出する金銀を減らすため、貿易量を制限する政策を行いました。

同時に非常に多くの著作を残しています。

代表作として、ここにあげた『折たく柴の記』の他、『西洋紀聞』(ヨーロッパ文化の紹介)などがよく知られています。

1708年、日本へ密かにやって来たイタリア人宣教師から世界の情勢などについてくわしい話を聞いたそうです。

当時の日本人としては非常に広い国際感覚を持っていたことが分かりますね。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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