僕ならこう考える
みなさん、こんにちは。
今回は随分と昔に読んだ本の話です。
吉本隆明という人の名前を知っていますか。
学校では滅多に習いませんね。
ぼく自身、授業で扱ったことはありません。
似たような名前の作家がいます。
吉本ばななさんです。
マンガ家のハルノ宵子さんは長女です。
彼女たちの父親だといえば、ああ、そうなんだと思う人がいるかもしれません。
それくらい遠い人になりました。
吉本隆明の本はどれも難解です。
学生の頃、必死で『共同幻想論』などを背伸びして読みました。
実に難解でしたね。
柳田国男の民俗学をある程度勉強してからでないと、歯が立ちませんでした。
それでも無理して手にしたのです。
彼の本を1冊も読んだことがないなどとは、とても言えませんでした。
しかし一番心に残ったのはなんといっても彼の詩です。
その中でもイザベル・オト先生とミリカという少女との間で苦悩する『エリアンの手記と詩』はぼくにとってかけがえのないものになりました。
手にとるだけで、今でも懐かしいものに思えます。
当時は勁草書房という出版社が全集を出していました。
その第1巻がこの初期詩編だったのです。
『固有時との対話』(1952年)と『転位のための十篇』(1953年)が代表作です。
今では講談社文芸文庫で手に入ります。
吉本隆明は後に思想家となりましたが、ぼくにとってはやはり詩人です。
柔らかで傷つきやすい心をもった人にしかみえません。
その彼も今から10年前、鬼籍に入りました。
人は年齢を重ねます。
彼は老年に向かうにつれ、次々と思考のプロセスに至る本や老年論を書き始めました。
夏目漱石を読む
ぼくが今までに何度も読んできたのは夏目漱石論です。
今ではもう難しい本を読もうとは思いません。
彼が夏目漱石のほぼ全ての小説を解説した『夏目漱石を読む』が一番気にいっているでしょうか。
この本は漱石の小説に入っていくための手引書のようなものです。
細かいところによく目の届いたいい道標だと感じます。
ぜひ、手にとってみてください。
彼は亡くなる10年ほど前から思考のプロセスに関する本や、子育て、老年に関するインタビューなどを次々と出版しました。
ここにあげた『僕ならこう考える』というのは実に軽い本です。
若者の悩みにインタビューの形で答えたものをまとめただけのものです。
しかしなかなかに含蓄があってさらりと読めるのにもかかわらず、心に残りました。
つい最近、再読をした時も印象はあまりかわりませんでした。
その中でも一番気にいったのは、人は2才までにどのように育てられたかで、その人の人間観、人生観のほぼ全てが決定されてしまうというものです。
彼は三島由紀夫や夏目漱石、太宰治などを例に出して、解説しています。
あたたかい環境の中で育てられた子供は、けっして横道にそれることはないというのです。
その後は無理になにかを学ばせるのではなく、その子供の潜在的な能力に任せる以外はないというのが、吉本隆明の基本的な考えです。
親にできることはほとんどなく、あとはただ見守るだけだというのです。
事実、そのようにして子育てをしてきたというのが、父親としての生き方だったそうです。
また、どこかに必ず一人は伴侶になるべき人がいると信じることも大切だと言います。
まだ出会っていないのならば、待ち続ける以外に方法はないと断言しています。
これはある意味、諦念とともに自分を投げだした一つの形なのかもしれません。
老いの幸福
『老いの幸福論』。
この本も軽いタッチで読みやすいです。
83歳の時に出版しました。
老人の肉体とはどのようなものか。
彼は糖尿病、白内障の手術、がんの切除手術など多くの病気を抱えて、ほとんど歩けなくなりました。
「吉本式日々の体操」と生活の必需品を紹介しています。
足・腕・指・脊髄の鍛錬、散歩、パソコンで拡大文字を読むことなどを通じ、身体の衰えとは真逆に進む、精神の様子を伝えています。
人間は想像以上にしぶとい生き物なのですね。
人間の幸福とか、人生の目的は何か、というのは若い時に考えることにすぎないというのです。
そんなことは元気で身体が動く時の暇つぶしのようなものです。
長いスパンではなく、ごく短い期間で考えればいいと彼は言います。
時間を細かく刻んでその日いい気分だったら、幸福だと思い、悪い気分だったら不幸だと思う。
それだけのことなのです。
日本は超高齢化社会となり、だれも経験したことのない領域に踏み込み始めています。
その日のことはその日のことにして解決して生きろというのです。
吉本隆明は理科系の人間です。
しかし学問的な知識はほとんどどこへ行っても役に立たないとも書いています。
この内容については、もう少し自分で考えてみなくてはなりません。
「下手の考え休むに似たり」というところでしょうか。
老いの超え方
この本は何度も読みました。
老人とは何かというのです。
要するに人間じゃない、「超人間」だと理解しろと言っています。
動物と比べると人間は反省をする。
動物は反射的に動く
確かに感覚器官はどんどん鈍くなります。
しかしその鈍くなったことを別な意味で言うと、何かしようと思ったということと実際にするということとの分離が大きくなってきているという特性なんだという理解の仕方をします。
だから、老人というのは「超人間」と言ったほうがいいのですという切り口です。
多くの知り合った人物については、一言で言い切っています。
埴谷雄高は誤った文筆家だった。
しかし埴谷は評論文を書かせたらいいものを書いた人である。
開高健の小説はさっぱり面白くなかった。
評論文を書かせたら最高だった人に、正宗白鳥、川端康成、三島由紀夫を挙げています。
自殺した江藤淳は、能力のある保守主義者だった。
いろいろな作家たちについての批評が実にユニークで面白いです。
彼は自分の死についてどう考えていたのでしょうか。
結局、死については家族に囲まれて、家庭で死ぬことが一番幸福なのではないでしょうかという言葉が全てです。
この本は彼に話を聞き、糸井重里がそれを書くという「聞き書き」という手法の本です。
きっと吉本の言葉が聞き手にとっては血となり肉となったのでしょうね。
彼の言葉がまるで話しかけてきているかのように聞こえてきます。
「生きる」「宗教」「教育」「素質」「お金」とテーマは次々に広がっていきます。
思想家にもやがて老年が訪れ、死がやってくるという意味では実に厳粛な1冊の本なのかもしれません。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。