平家物語
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は『平家物語』を読みます。
あまり学校ではやらないところです。
内容的に感心しないということでしょうか。
平家を襲うという計画を、密告した男の話ですからね。
時は1177年。
京都鹿ケ谷で行われた平家討伐の謀議について、多田蔵人行綱が清盛に密告しに出向いたというシーンです。
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行綱は後白河院の警護を司る北面武士なのです
世に鹿ケ谷の変と呼ばれている歴史的大事件の幕開けとなった場面です。
身の安全を策して清盛に密告したものの、結局、怖ろしくなって逃げだしてしまいました。
行綱の心理状態や人間の卑小さを読み取るのが大きなポイントになります。
しかし本当に史実としてあったのかどうか、はっきりしたことはわかっていません。
そうした事実が確かにあったはずだと、人々が信じたということが大切なのです。
『平家物語』の作者は未詳です。
琵琶法師によって語られ、広まったことはご存知ですね。
平安末期の平氏の興隆と没落を流麗な和漢混交文を用いて、つづった軍記物語の代表作です。
かつてNHKで、全編を解説するラジオ番組がありました。
あの時に、ぼくもはじめて読んだのです。
いろいろな話が実にみごとに書かれています。
戦いの様子はもちろん、人間の愛情や欲望をさまざまな角度から取り上げているのです。
基本は仏教的な無常観で貫かれています。
滅びていくものを、これほどまでに哀惜をこめて語った物語はないのではないでしょうか。
名作です。
ぜひ、チャンスがあったらチャレンジしてみてください。
鹿ケ谷の変
後白河法皇をいただく反平家勢力の藤原成親や俊寛僧都たちは、ひそかに平家討伐の謀議を行っていました。
しかしその参加者の1人、多田蔵人行綱は不安を感じ、入道相国平清盛に密告しようと屋敷を訪れたのです。
5月29日の夜更けごろに行綱が平清盛邸を訪れ、清盛への面会を請います。
人づてでは話せないことだと言って直接清盛に、平家討伐のため成親卿が院宣と称して武具を用意し、軍兵を集めていると密告したのです。
そこで清盛は侍たちを呼び、大騒ぎとなりました。
行綱は怖ろしくなって門外へ逃げ出してしまいました。
平清盛と後白河法皇との関係は非常に複雑です。
最初は少し距離をおいていたようですね。
しかし後白河上皇と平滋子との間に高倉天皇が生まれました。
ここから2人の関係はかわります。
清盛が財政を、後白河法皇が人事権をそれぞれ分担したというわけです。
高倉天皇の母である平滋子がうまく2人の仲介役となったのです。
しかし1176年、平滋子が亡くなります。
ここから2人の関係は再び冷えていきます。
その翌年、対立を決定的にしたのが鹿ケ谷の変でした。
詳しいことは歴史の本にあたってください。
日本史の授業では必ず学びます。
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密告を受けた平清盛は延暦寺に向かうはずだった兵を、そのまま鹿ケ谷へ向かわせました。
この襲撃によって鹿ケ谷に集まった後白河法皇一派の重臣たちは、次々に捕らえられたのです。
清盛は後白河上皇の院政を望んでいなかったため、ここから力関係が大きく変化しました
若い高倉天皇の時代になったのです。
背後には平清盛の権力がありました。
ここから孫である安徳天皇の即位などがあり、平家一族の繁栄が始まります。
それでは密告のシーンを読んでみましょう。
本文
五月廿九日の小夜更け方に、多田蔵人行綱、入道相国の西八条の邸(てい)に参つて、
「行綱こそ申すべき事候間、参つて候へ」といはせければ、入道、「常にも参らぬ者が参じたるは、何事ぞ。あれ聞け」とて、主馬判官盛国(しゅめのはんがんもりくに)をいだされたり。
「人伝(ひとづて)には申すまじき事なり」といふ間、さらばとて、入道みづから中門の廊(ろう)へ出でられたり。
「夜ははるかにふけぬらむ。ただ今いかに、何事ぞや」とのたまへば、「昼は人目のしげう候間、夜にまぎれて参つて候。
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このほど、院中の人々の、兵具をととのへ、軍兵を召され候をば、何とかきこしめされ候」。と申しければ入道、「それは、山攻めらるべしとこそ聞け」と、いと事もなげにぞ宣(のたま)ひける。
行綱近う寄り、小声になつて申しけるは、「その儀では候はず。一向御一家(いっこううごいっけ)の御上(おんうへ)とこそ承り候へ」。
「さてそれをば、法皇もしろしめされたるか」。
「子細(しさい)にや及び候。成親卿(なりちかきょう)の軍兵召され候も、院宣とてこそ召され候へ」。
俊寛(しゅんかん)がと振る舞うて、康頼(やすより)がかう申して、西光(さいこう)がと申してなんどといふこととども、初めよりありのままにはさし過ぎて言ひ散らし、「暇(いとも)申して」とて出でにけり。
入道大きに驚き、大声をもつて、侍(さぶらひ)ども呼びののしり給ふ事、聞くもおびただし。
行綱(ゆきつな)なまじひなる事申し出(いだ)して、証人にやひかれんずらんと、おそろしさに、大野(おほの)に火をはなつたる心地して、人も追はぬにとり袴(ばかま)して、いそぎ門外へぞ逃げ出でける。
現代語訳
治承元年(1177年)5月29日、夜がふけたころ、行綱は平清盛が住む西八条の邸へ出向きました。
「行綱、申し上げることがあり参上しました」と告げ、門をくぐったのです。
清盛は「いつもは来ない者の参上とは何事だ。聞いてこい」と、主馬判官の盛国を行かせました。
行綱が「とても人伝てには言えないことがあります」と伝えると、清盛が「それならば」と自ら中門の廊下に出てきました。
清盛が「夜はすでにふけているというのに、この時分、何事か」とただしたときのことです。
行綱は「昼間は人目がありますので、夜にまぎれて参りました。このたび、院の中の人々が兵具を整え、軍兵を集めていることをどう思われますか」と告げました。
清盛は「ぜひもない、後白河法皇が山門をお攻めになる計画だと思っておる」と、なにごともないように答えました。
行綱は、清盛に近づき、小声で、「そうではございません。当家を攻めるおつもりとお考えください」と告げたのです。
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清盛が「それは、後白河法皇も知ってのことなのか」と問うと、行綱は「存じております。院中の事務を統括する別当の藤原成親卿が軍兵を集めたのも、院宣をもってしたこと」と答えました。
康頼がなんと言い、俊寛が何を口にし、西光が何をしているのかなど、実際よりも大げさに言い散らし、自分は抜けてきましたと告げたのです。
清盛は、大声で侍どもを呼び集めました。
密告した行綱は、証人に引き出されることの恐ろしさに、誰も追おうとはしないのに、袴の股立をとりはずし、大きな野原に火を放った気がして、急いで門の外へ逃げたということです。
その後の行綱は、木曾義仲の弱体化を見越して後白河上皇に接近したりしていますが、行綱だけの武力では義仲を倒すには至りませんでした。
法皇と義仲が激突した法住寺の合戦では法皇に味方して参戦したものの、木曾軍の圧倒的武力の前に、行綱ら法皇方の武士は粉砕されてしまいます。
源頼朝の異母弟である源範頼や源義経の手によって木曾義仲が滅ぼされると、行綱は義経の配下として行動します。
ただ義経と親しくし過ぎた事がたたって、義経失脚に連座する形で失脚してしまいます。
そのまま歴史の表舞台から行綱は消えてしまいました。
1人の男の生きざまを見た時、どのようなことがいえるのでしょうか。
ぜひ、あなたも考えてみてください。
政治の世界は魑魅魍魎がいつも跋扈しています。
歴史は勝利者によって、つねに書き換えられていくのです。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
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