徳の政治
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は徐敬業という人の行った治世の方法について学びましょう。
いわゆる徳治政治を貫いた思想家としてよく知られている人です。
唐の太宗の子、第3代皇帝(在位649~683)高宗の時代の話です。
多数の無法者が集まって群れをなす盗賊となり、人々が怖れた時代がありました。
そこで皇帝は徐敬業を新たに刺史(州の長官)にし、民心をおさめようとしたのです。
敬業は大方の予想に反して、意外にも数人の部下だけを連れて盗賊の視察に出かけました。
彼らの陣営に入って今までの無法だった役人の責任を認め、盗賊たちを許したのです。
さらに首謀者たちだけを呼び、鞭打ち刑に処した後、釈放しました。
領内ではそれ以後、騒乱がおさまり人心が落ち着いたそうです。
なぜそのようなことが彼にできたのか。
その背景にはどのような思想があったのかについて、ここで考えてみましょう。
徐敬業にはその他にも逸話が数多くあります。
唐の武則天が実権を握った684年、徐敬業が揚州(江蘇省)で乱を起こしたことがありました。

唐王朝を簒奪した武則天を討つための挙兵だったのです。
則天は反乱軍を討ち、結局、敬業の軍は敗退しました。
その時、彼は自分とそっくりな容貌の男の首を斬り、敬業の首だと欺いて逃亡したのです。
唐の文人がある時、霊隠寺という寺を訪れた時、月夜に詩を吟じる老僧と出会いました。
この僧侶こそが、90歳過ぎまで生き続けた徐敬業その人だったのです。
これは日本でもよく知られていた話です。
『唐語林』は唐代の政治上の史実や民間の習俗などについて記した書物で、さまざまな人の逸話が収録されているのです。
書き下し文
賊 新刺史の至るを聞き、皆繕理して以て待つ。
敬業一に問ふ所無く、他事を処すること已に畢はり、方に曰はく「賊安くにか在る」と。
曰はく「南岸に在り。」と。
乃ち一二の佐史を従へて往き之を観れば、駭愕(がいがく)せざる莫し。
賊初め兵を持して覘望(てんぼう)するに、見るに及び船中に人無く、又、兵仗(へいじょう)無きを見て、更めて営を閉じて隱蔵す。

敬業直に其の営内に入り、告げて云はく「国家知れり、汝等貪吏(たんり)の害する所と為り、他悪有るに非ざるを。
悉(ことごと)く田里に帰るべし、去る無きを賊と為す。」と。
唯だ其の帥を召し、責むるに早く降らざるの意を以て、各々笞うつこと数十にして之を遣る。
境内粛然たり。
現代語訳
賊たちは、新しい刺史(地方長官)が赴任して来ると聞き、みな陣営を整え、備えを固めて待っていました。
ところが敬業は、何一つ賊について尋ねようとはしなかったのです。
他の政務をすべて終えてから、ようやく「賊はどこにいるのか」とききました。
部下が「南岸におります」と答えました。
そこで彼は、わずか1、2人の側近だけを連れて賊の様子を見に行ったのです。
みなは驚きあきれました。

賊たちは、初めは武器を持って様子をうかがっていましたが、見ると船の中にはほとんど人もおらず、また武器も備えていません。
そこで賊は営門を閉ざし、身を隠しました。
しかし敬業はそのまま賊の陣営の中へ入り、告げて言いました。
「お前たちが貪欲な役人たちに苦しめられた結果がこれであり、別に反逆の心があったわけではないことを私は知っている。
みな故郷へ帰るがよい。帰らぬ者だけを賊とみなす。」と。
ただし、その首領たちだけは呼び出し、「もっと早く降伏しなかったのはなぜか」と責め、各々を数十回鞭打ってから帰しました。
こうしてその地方は治まり、秩序が保たれたということです。
信義の政治
この話の中心は、「武力ではなく信義によって人心を服させる政治」の意味するところは何かということです。
敬業は、大軍を率いて威圧することもなく、事情を理解し、民衆は悪政の被害者であると認め、本当の反逆者だけを処罰しました。
つまり争わずして地域を安定させたのです。
ここには「民衆がなぜ反乱に至ったかを考えるのが根本」という政治思想が表れています。

普通の長官なら最初に「敵は何人か」「武器は」「どこに陣取るか」という判断を下すところでしょう。
しかし彼はそれをしませんでした。
民心を見抜き、武力より徳を重視したのです。
さらに「帰る者は人民、帰らない者だけが真の賊だ」という政治的判断を鮮明に示しました。
中国の古典には、「武力や厳罰だけでなく、徳や信義によって民心を服させる官吏」の逸話が数多くあります。
これはある意味、儒家的な政治思想の基本、「徳」による治世を示すものとして重視されました。
『論語』の有名な思想にある「徳を以て政を為す」に直接つながっています。
日本への影響
日本でもこの思想は受け継がれました。
天皇や国司は、「民を撫育する」という考えを持つことが大切だと信じました。
民をいたわり、彼らの苦しみを理解し、安定した生活を保障するという「仁」の政治の実現です。
孔子の『論語』に直接つながっています。
さらに後の世になると、武士たちはそこから、「力だけでは長く治められない」という教訓を得ました。
儒学が政治の基本教養になると、中国古典の逸話を熱心に学ぶようになったのです。
そこで理想化されたのが、民を虐げず、重税を避け、公平に裁き、民心を得るという思想でした。
特に飢饉時の救済などは生命に直結する政治そのものです。
年貢の軽減などとあわせて、「悪政が賊を生む」という発想が、日本の治世にも入り込んでいきました。

明治以降、日本は近代国家を樹立し、西洋法や官僚制度を導入しました。
本来ならば西洋の哲学が中心になるべきところでした。
しかし論語の学習はそれ以降も続けられたのです。
徳治主義の基本は個人の徳が社会全体に及ぼす影響にあります。
上に立つ者が徳を備え、その徳が広く社会に浸透することで、社会全体が調和と安定を保つことができると考えました。
しかしその一方で、このシステムの限界を感じた思想家たちもいたのです。
中国では、その代表が韓非子です。
彼の法家思想は儒家の仁愛の説く限界を感じていました。
法と刑罰による信賞必罰の仕組みでなければ社会秩序の維持や国家の統治はできないと考えたのです。
あなたはどちらの立場がよりすぐれていると思いますか。
簡単に結論の出る議論ではありませんね。
いずれにしても、国家や組織を動かすことは容易ではありません。
この機会に少し考えてみてはどうでしょうか。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
