子供の「なぜ」
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は「ふしぎ」というテーマで考えてみましょう。
現代の教育は、最近コスパとタイパの中であえいでいるような気がして仕方がありません。
効率性や正確さが重視されすぎていると感じるケースが多いです。
考えさせることが大切だということは、誰もが知っています。
しかし同時に答えを先に教えてしまう場面もあふれています。
その典型がAIを活用しての授業なのかもしれません。
なぜと問う暇もなく、タブレットからすぐに答えが飛び出てきます。
それを本当に咀嚼して自分のものにする前に、授業の主題はどんどん次に移ってしまうのです。
腹に入れるという表現がありますね。
本当に納得し、どのようなときにもそれを活用できるまで、自分のものにすることをさします。
確かに人々の知識は増えました。
ただしそれが活用できていないのです。
ひとつの知識と別のものとがうまく関連づかない。
だからそれぞれの項目が孤立したままで、十分役に立たないのです。

本来の教育とは、子供の「なぜ」を受け止め、ともに考える姿勢が必要であることは誰もが知っています。
子供の「ふしぎ」を大切にすれば、学ぶ力や創造力が伸びていきます。
他者と世界を深く理解しようとする姿勢も育つのです。
しかしそれが十分に実践できていないのが現状というしかありません。
なぜできないでしょうか。
元々、全ての事象を科学だけでは解決できないという考え方があります。
人はそうした現実の中に生きているのです。
AIの記憶力が人間をはるかに超えているとはいうものの、本当の意味で物語を作りだせるのやはり人間だけです。
生と死のあわいをつねに漂っている私たちの感情は、AIよりもはるかに複雑なものです。
物語ることと、科学の境界線には何が存在するのでしょうか。
日本を代表する教育心理学者、河合隼雄氏の文章を読んでみます。
本文
子供の世界は「ふしぎ」に満ちている。
小さい子供は「なぜ」を連発して、大人に叱られたりする。
しかし、大人にとって「あたりまえ」のことは、子供にとって全て「ふしぎ」と言っていいほどである。
「雨はなぜ降るの」「セミはなぜ鳴くの」。
あるいは少し手が込んできて、「飛行機は飛んでいくうちにだんだん小さくなっていくけど、中に乗っている人間はどうなるの」などというものもある。
これらの「はてな」に対して、大人に答えをきいたり、自分なりに考えたりして、子供は自分の知識を蓄え、人生観を築いていく。

子供の「ふしぎ」に対して、大人はときに簡単に答えられるけれど、いっしょになって「ふしぎだな」とやっていると、自分の生活がそれまでより豊かになったり、おもしろくなったりする。
子供は「ふしぎ」と思うことに対して、大人から教えてもらうことによって知識を吸収していくが、ときに自分なりに「ふしぎ」なことに対して自分なりの説明を考えつくときもある。
子供が「なぜ」ときいたとき、すぐに答えず、「なぜでしょうね」と問い返すと、おもしろい答えが子供の側からでてくることもある。
「お母さん、セミはなぜミンミン鳴いてばかりいるの」と子供が訊ねる。
「なぜ鳴いているのかしらね」と母親が応じると、「お母さん、お母さんと言って、セミが呼んでいるんだね」と子供が答える。
そして自分の答えに満足して再度質問しない。
これは子供が自分で説明を考えたのだろうか。
それは単なる外的な説明だけではなく、何かあると「お母さん」と呼びたくなる自分の気持ちもそこに込められているのではなかろうか。(中略)
そのときに、その人にとって納得がいく答えこそが物語になるのではなかろうか。
河合隼雄「物語とふしぎ」
教育の原点
近代人は神話を嫌うといいます。
「神話」は非合理的だからです。
多くの人はそうした曖昧なものを超えて科学が現在の世界をつくりあげてきたと信じています。
近代の社会では、客観的な根拠や論理が重視されます。
万有引力の法則から原子力の開発にいたるまで、すべてが科学的な論理の世界で構成されています。
地球から飛び立ったロケットが、宇宙船を切り離し、月面に着陸する時代です。
全てが高度な計算と論理によって成り立っています。
「神の怒りが雷を起こす」などといった神話的説明は、迷信として退けられてきました。
科学はあらゆる自然現象を説明し、人々の生活を大きく発展させてきたからなのです。

たとえその先に、地球を破壊しつくしてしまう核爆弾があったとしてもです。
そこまではいかないという、ある意味優雅な楽観論の中で生きています。
しかし、科学と物語の関係を考えると、人間は科学だけでは生きられないことが見えてくるのです。
科学は「どのように起こるか」を説明することには優れています。
たとえば雨は、水蒸気が冷えて水滴になったものです。
しかし雨は人間にとってどのような意味を持つのかとか、なぜ人は雨に寂しさや懐かしさを感じさせるのか、といった問いには、十分答えられません。
そこから人は何を生み出したのか。
それが神話なのです。
物語と論理の間
子供がセミの鳴き声を「お母さん、お母さんと呼んでいる」と考えたという一節には、大きな意味がありますね。
自然を単なる現象としてではなく、自分の感情と結びついたものとして理解したからです。
科学的には誤っているかもしれません。
しかし人間的な理解としては豊かです。
これと同じことが神話にもいえます。
単なる事実説明だけなら、これほど非合理的な話はありません。
しかし人間には生老病死の不安がつねについてまわります。
それを希望や願いにかえるためにはどうしても物語が必要だったのです。
近代人は科学の力に頼っています。
その結果、論理では神話を否定しています。
しかし実際には今なお物語を必要としているのです。
ぼく自身、この10年ほど能楽堂へ通っています。
そこで見る能楽の世界はまさに神への信頼に基づいたものばかりです。

通常、そのジャンルは五番立といわれ、「神、男、女、狂、鬼」に分かれます。
最も最初に演じられるのが、神話そのものなのです。
神に祈りを捧げ、万歳楽を願います。
全ての人にとっての「寿福増長」を祈願します。
個人の生きる意味が今ほど複雑で薄らいでいる時代はないのではないでしょうか。
核時代の想像力は、人間の生きることに対するあらゆる意味を奪いつつあるような気さえします。
「意味」を失った時代ほど、惨めなものはありません。
科学と物語は対立するだけのものではないのです。
科学は世界の仕組みを明らかにし、物語はその世界の中で人間がどう生きるかを支える屋台骨です。
いくら近代人が神話を否定したとしても、人間が意味を求める存在である限り、新たな形の物語を作り続けることになります。
子供にとって世界は未知そのものです。
「ふしぎ」こそが学びの原動力にならなければ、教育の意味はありません。
「物語」と「論理」の境界線は案外近くにあるものなのではないでしょうか。
河合隼雄氏の文章を参考にして、少し考えてみました。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
