情報化社会
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は知の価値ということについて考えてみます。
昨今は「情報」という言葉が跋扈していますね。
なんでもこの表現で済ませてしまいます。
発信源はネットです。
知識を蓄えることが重みを持たなくなりました。
全てはネットを調べればわかるからです。
厳密にはもちろん解決するワケがありません。
わかるのは知識の周辺だけです。
なぜなら、理解するには立ち位置としての世界観がいりますからね。
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全体の構造が見えていないのに、細部がわかるなどいうことはあり得ません。
それにしても知の価値が下がりました。
ものを知っていることに対するリスペクトが確実に失われています。
ネットで調べればいい。
それが全てです。
時間をかけて学ぶなどということは、もうムダだ。
なるべく短時間で効率よく理解する。
こんな声ばかりが聞こえてきます。
キーワードは何で、どのフレーズが人を感動させるのか。
結論はどれで、幾らくらいの利潤があげられるのか。
全て功利主義といえばそれまでです。
実に味気ないですね。
知ることの喜びなど、どこにもありません。
情報イコール利潤という構図から抜け出せなくなってしまいました。
なるべく希少なデータを短時間で吸い取ることが、現代を生き抜くためのスキルなのです。
知識を得る
齋藤孝の『なぜ本を踏んではいけないのか』を読みました。
古今東西の名著と呼ばれるものが100冊以上取り上げられています。
学生時代から、ずっと本を読み続けてきたのでしょう。
その語り口には、本に対する愛情がこもっています。
タイトルもユニークですね。
昔から、枕とか本を踏むことはタブーでした。
なぜかわかりますか。
答えは単純です。
それがモノではないからです。
人格そのものなのです。
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その人が精魂込めて書き上げた本には、著者の人格が宿っています。
かつて聖書を踏ませたり、イエスの像を踏ませたのと同じことです。
その本の意味や内容が人格を通したものだと知っていれば、人は足で踏むことができません。
しかし本は残念ながら、大量消費物質の1つになってしまいました。
古書店の奥で本の価値を知っている店主が扱うものではなくなったのです。
今はすべてアルバイトの店員によって値付けが可能です。
数カ月間、棚に置いて売れなければ、自動的に値段を下げる。
誰にでもできるオートマチックな作業なのです。
その本を読み、自分の知識にして、世界と対峙するなどという大袈裟な心構えはいりません。
電子書籍化が進むにつれ、ますます本というものの価値が下がってしまいました。
齋藤孝はこの本の中でそのことを憂い続けています。
自炊
最近では1冊の本をスキャナーで取り込んで、すぐにクローン化してしまうこともできるようになりました。
裁断しスキャンしPDF化するサービスまであるのです。
個人の使用のためという抜け道は確かにあるようです。
しかし1度電子化された本はすぐに一人歩きを始めます。
知識を得るということに、今日意味があるのか。
これは大変難しいテーマです。
確かに人間は学ぶことが好きです。
新しいことを知るということは、それ自体が喜びともなるからです。
かつて人気番組に「トリビアの泉」がありました。
誰も知らない実にささやかな知識を披露し、それに対する驚きを得ようとするものです。
この番組をはじめてみた時、大げさに言えば、これこそが今日の知に対する疲れを象徴しているのではないかと感じました。
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現代人は意味のある知識に疲労を覚えはじめたのではないかと思ったのです。
21世紀の幕開けはまさに9.11日のテロから始まりました。
あの時から多くの人の心の中に、ぽっかりと穴が空いたのです。
20世紀、人々は多くの知識を得、たくさんの科学技術や経済思想を生み出しました。
一方ではソ連が崩壊し、マルクス主義が終焉を迎え、冷戦も終わりました。
しかし新しい世界の枠組みが米中を中心にして、再び出来上がっています。
あらゆる知が総動員された20世紀に、一瞬で数百万人の命を奪う核までも手にしてしまったのです。
しかし互いに等質の武器を持てば、その使用は不可能となります。
2度と後にはひけない戦争へ突入してしまうからです。
知の価値
知ることは確かに楽しいです。
しかし知ることをいくら続けても解決のつかない問題が山のようにあることを、ぼくたちは知ってしまいました。
世界にはたくさんの宗教があります。
その溝を埋めることは今日、容易ではありません。
知でその空白が埋められると考えている人はどれくらいいるのでしょうか。
知ることよりも、もっと本質的な信じるという論理を超えた世界に人々は今、救いを求めようとしています。
だが一方では神のない時代に、神学を捨てた者もいます。
知の獲得だけでは解決できないことがあるのを人々は知りつつあります。
ささやかな愚にもつかない知識のひけらかし番組が潰れてしまうのも時のごく自然な流れなのです。
結局、仲間うちでのひそひそ話のレベルを超えられませんでした。
意味を持たない知に、せめて遊びの要素をみたいという気持ちが理解できないこともありません。
しかし、これを知と呼ぶのはあまりに危険です。
クイズ番組隆盛の流れにも陰りが出てきていますね。
この状況がさらに進めていけば、まさに「ええじゃないか」の世界へたどり着いてしまいます。
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ニヒリズムの渦に自ら飛び込んでいくことになるのです。
やはり知には価値があるのでしょうか。
たくさんの評論家、知識人にさえ、もう「今」という時間が見えません。
コロナ禍の中、世界中がワクチンや新薬の開発にあえいでいます。
先がなかなか見えてこないのです。
彼らに見えるのは自分の専門という小さな窓から覗き見る風景だけです。
今日知識人、評論家に対する疑念は強まるばかりです。
尊敬されることのない専門家が、世の中にあふれかえっているのです。
テレビのコメンテーターと呼ばれる人たちの表情をよく見て下さい。
21世紀の知はどこへ向かっているのでしょうか。
哲学の時代と呼ばれて久しいです。
今ぐらい、世界を理解しうるだけの知の体系が必要とされる時代はないのではないでしょうか。
最後に1冊だけ。
齋藤孝の著書の中でコロンビアの作家、ガルシア・マルケスの代表作『百年の孤独』にからむ部分が気になりました。
この本はいまだに文庫本にもなっていません。
しかし千年後も残るとあります。
ノーベル賞をもらったことと無関係に、ぼくもこの意見には全面的に賛成です。
非常に内容の濃い、衝撃的な本です。
長いですが、ご一読をお勧めします。
今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。