【不全感と愛嬌】人間にとって1番必要なものはこれ【先達を探す】

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不全感と愛嬌

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

人間、毎日仕事をしなくては食べていけません。

なんにもしなくても生きていける人は誠に羨ましい存在です。

しかしかなりの確率で、つまらないでしょうね。

人間は誰かのために生きているという実感がないと、生の喜びが得られないのです。

どんなことでもいいのです。

誰かのためという生き方が必要です。

あなたがいなくなったら、悲しむ人がいるという事実が命を支えているのです。

いつのことでしたか。

内田樹が「仕事力」と題して新聞に短い文を載せていました。

素直に面白いと思いました。

学ぶ姿勢のある人間は伸びるというのです。

確かにそうしたことは言えるでしょうね。

どんなことでも学びたいと考えている人は、先へ進めるのです。

世の中には知らないことばかりがあって、自分はダメだ。

それだけでは前へ進めません。

これだけあるとこれしかないでは生き方に違いが出てしまいます。

これだけしか知らないからもっと学ばなくてはと考えてください。

これだけの知識があるから、もう少しのんびりしようと生き方も確かにあるでしょう。

しかしそれでは生きる意欲につながりません。

まだ足りないと思うのです。

わかりやすくいえば、何にも興味、関心のない人間には伸びしろがないのです。

3つの条件

内田樹は学ぶ力を伸ばすには3つの条件が必要だと述べています。

その第1は不全感です。

自分が無知であるという自覚です。

これは客観的にどうであるという論点ではありません。

どんな学歴をもって、何を知っているかではないのです。

もっともっと自分自身の深淵を覗く勇気とでもいったらいいでしょうか。

多くのことをこれからも学び続けていかなければならないとする飢餓感のない人間は伸びません。

いつでも誰かが先生なのです。

相手がどんな立場にある人でも、教えてくれる人は全て先生です。

当然、謙虚になれますね。

なんにも知らない自分に教えてくれる人です。

その気持ちがあれば、必ず外にあらわれます。

相手はこの人になら教えてあげたいと思うものなのです。

逆の場合はダメでしょうね。

そんなことは知っているという気持ちがあれば、それが外に出ます。

その瞬間にもう全てが終わってしまいます。

簡単なようでいて、実はこれが1番難しいのです。

あなたのまわりにいる人はどうですか。

あなたのことをどのようにみてくれていますか。

自分の気持ち次第で、全てがいい方向へ回り始めるのです。

ほんの僅かのことです。

しかしこれが難しい。

先達

第2は欠如を埋めてくれるメンター(先達)を探し当てられる能力を持っていることです。

自分を1歩先へ進め連れて行ってくれる人ならば、生きていても死んでいても、全ての人がメンターになりうるのです。

自分の周囲に先達を探すことです。

これは最初の不全感につながっています。

どんな小さなことでも、このことならあの人に聞こうと思えるかどうかです。

ただし自分でそこまで突き詰めてからのことです。

いい加減な気持ちで、なんでもかんでも人に聞けばいいということではありません。

自分ではここまで考えたけれど、どうしてもわからない。

この点はどのようにすればいいのでしょうか。

そういう訊ね方をしてください。

それが相手の琴線を揺するのです。

そこまで調べて自分を頼ってくれたのかという気持ちが、それならば教えてあげようという態度にかわります。

教えてもらえる時はていねいに訊ねてください。

めったにある機会ではありません。

ひょっとすると、2度と訪れないかもしれない貴重な時なのです。

それがメンターを探すということです。

先達はあらまほしき、という言葉があります。

自分より先に行っている人は必ず苦労をしています。

ここで失敗したというところを、もし教えてもらえたら、それはすごいことです。

本当にありがたいと感謝しなくてはいけません。

人間の不思議

さらに第3は素直な気持ちを持つことです。

他人がどうしてもこの人には教えてやろうと思わせるだけのものを持つことです。

これを内田樹は「愛嬌」と呼んでいます。

素直な気持ちで教えてくださいと傍らに寄ってきた人を、邪険にするということはありません。

人間の持つ不思議なところです。

同じことを訊ねられても、この人にはもっと先まで教えてあげたいと思うことがありますね。

むしろ自分の持っているものをなんとかして、相手に教えたいと思うのが普通でしょう。

教えてもらいたいと心の底から願えるだけの心の飢餓感をもてるかどうか。

それが試されているのかもしれません。

1つのことを本当に学びたいという人たちには、確かに愛嬌と呼べるものがあります。

それは自らが至らない者であるという自覚に支えられているからです。

そうした時、人は謙虚になります。

それが愛嬌に繋がるのです。

年齢も社会的地位も、なにも関係がありません。

学びたいとする人としての根本的な欲求がなぜ美しいのか。

そこにこそ、まさにこの不思議な力が宿っているからに違いありません。

しかしわかってはいるものの、それを実行することは簡単なことではありません。

真実の不全感をもつことは容易ではないのです。

それが本当のものであった時、人はけっして冷たい態度をとりません。

そこに人間の不思議があるのです。

誰かのために尽くしているとき、人はとても幸せな気持ちになれるのです。

そういう人間になりたいといつも思っています。

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その難しさを自分の身体に浸みこませて生きていくのが、最高の人生なんでしょうね。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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