【紫式部・無名草子】いつかは読みたい源氏物語が誕生するまでの秘話

無名草子

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は高校で習う教材を扱いましょう。

『無名草子』(むみょうぞうし)です。

鎌倉時代初期の評論です。

女性の立場から述べた文芸書としては最古のものなのです。

筆者は藤原俊成女とされています。

しかし本当のところはよくわかっていません。

1196年(建久7年)から1202年(建仁2年)頃の成立であると推定されています。

その中でも教科書ではよく「紫式部」と「清少納言」が取り上げられます。

ともに日本を代表する才女ですね。

『源氏物語』『枕草子』はどちらもあまりに有名です。

教科書にも多く取り上げられています。

今回は『源氏物語』を取り上げてみましょう。

あなたはこの長編を読んだことがありますか。

現代語訳でもかまいません。

漫画でもいいです。

全編を通して読むのは大変なことです。

とんでもない労力を使います。

しかしこの国に生まれたからには、この国を代表する作品を読みたいと考えても不思議ではありません。

ぜひチャレンジしてみてください。

『源氏物語』は1つの巻だけを読んでも十分に面白いです。

しかし全編に目を通すと、世界が一気に広がります。

よくぞ1人の女性がここまでの作品を描いたものだと感心するばかりなのです。

もちろん、紫式部にしても、最初からこれほどに長くなるとは、予想もしていなかったでしょう。

次々とスピンアウトしていった結果、作品が長大なものになりました。

その流れを追っていくだけでも十分に価値があるのです。

「紫式部」原文

「繰り言のやうには侍れど、尽きもせず、うらやましくめでたく侍るは、大斎院より上東門院へ、『つれづれ慰みぬべき物語や候ふ。』

と尋ね参らせさせ給へりけるに、紫式部を召して、『何をか参らすべき。』と仰せられければ、

『めづらしきものは、何か侍るべき。新しく作りて参らせ給へかし。』と申しければ、

『作れ。』と仰せられけるを承りて、『源氏』を作りたりけるこそ、いみじくめでたく侍れ。」

と言ふ人侍れば、また、

「いまだ宮仕へもせで里に侍りける折、かかるもの作り出でたりけるによりて、召し出でられて、それゆゑ紫式部といふ名は付けたり、とも申すは、いづれかまことにて侍らむ。

その人の日記といふもの侍りしにも、

『参りける初めばかり、恥づかしうも、心にくくも、また添ひ苦しうもあらむずらむと、おのおの思へりけるほどに、いと思はずにほけづき、

かたほにて、一文字をだに引かぬさまなりければ、かく思はずと、友達ども思はる。』
などこそ見えて侍れ。

君の御ありさまなどをば、いみじくめでたく思ひ聞こえながら、つゆばかりも、かけかけしく馴らし顔に聞こえ出でぬほども、いみじく、

また、皇太后宮の御事を、限りなくめでたく聞こゆるにつけても、愛敬づきなつかしく候ひけるほどのことも、

君の御ありさまも、なつかしくいみじくおはしましし、など聞こえ表したるも、心に似ぬ体にてあめる。

かつはまた、御心柄なるべし。」

現代語訳

同じことを繰り返し言うようですけれど、尽きることもなく、うらやましくすばらしくございますのは、大斎院から上東門院(彰子)へ、

『退屈さを紛らわすことのできる物語はございますか。』とお尋ね申し上げなさったところ、

(上東門院は)紫式部をお呼びになって、『何を差し上げたらよいかしら。』とおっしゃったので、

紫式部は、『珍しいものは、何かございましょうか。いや、ございません。新しく作って献上なさいませよ。』と申し上げたところ、

(上東門院が)『では、あなたが作りなさい。』とおっしゃったのを,紫式部はお引き受けして、『源氏物語』を作ったことは、たいそうすばらしいことです。」

と言う人がおりますところ、一方では、「紫式部がまだ宮仕えもしないで実家におりました時に、このようなもの(源氏物語)を作り出したことによって、宮中にお呼び出しになられて、

そのため紫式部という名をつけた、とも申すのは、どちらが本当なのでございましょうか。

その人の日記というものございましたが、他の女房たちがそれぞれ思っていたところ、たいそう意外にもぼんやりしていて、未熟で、一という文字さえ書かない様子であったので、

こうとは思わなかったと、仲間の女房達は思いなさる。』などと書き表されてございます。

主君(藤原道長)のご様子などを、たいそうすばらしく思い申し上げながら、ほんのわずかでも、気があるような様子で馴れ馴れしくお書き申し上げないのも、すばらしく、

また、皇太后宮(彰子)の御事を、この上なくすばらしいと書き申し上げるにつけても、魅力があり親しくお仕えした時のことも、

主君のご様子も、親しみやすくすばらしくていらっしゃった、

などとお書き表しているのも、紫式部の控えめな性格に似つかわしくない様子であるようです。一方ではまた、彰子さまと道長さまのご性格なのでしょう。」

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上東門院というのは道長の娘、一条天皇の中宮彰子のことです。

紫式部はこの女性に仕えました。

彼女の家庭教師でもあり、話し相手でもあったのです。

紙に書くことの意味

彰子に向かって「面白い本はないの」と訊く大斎院の様子が物語りの発端です。

困った彰子はさっそく紫式部に質問します。

「何を差し上げたらいいのでしょう」という逆に訊いたワケです。

式部は簡単に「何か作ってさしあげたらよろしいのに」と答えます。

すると彰子は「そんなこというのなら、あなたがつくりなさい」と呟いたのがこの長編誕生の発端だというのです。

なんとなくそんなこともありそうな気がしますね。

もう1つは宮中に仕えていない頃から、式部が物語を書き溜めていたというものです。

その噂が広まって出仕が決まったという話です。

さてどちらがより本当に近いのか。

ちょっと悩むところですね。

ただこれだけは言えます。

当時、紙は大変な貴重品でした。

誰もが手にできるワケではなかったのです。

当然、財力がなければなりません。

そこに登場するのが藤原摂関家です。

道長の財力がなければ、多くの紙に物語を書くことはできなかったでしょう。

式部は自分の実力をあからさまに示すような人ではありません。

「一」という字を知らないような顔をしていたとあります。

しかし実際は家で小さなころから漢文を習っていたのです。

当時、女性は漢字を知りませんでした。

歌人の家に生まれたので、兄たちと一緒に漢字を学ぶことができたのです。

しかしそのことをいつも隠して暮らしていました。

そうしなければ、他の女房たちからいじめにあってしまうからです。

ある意味で保身術に長けていたとも言えますね。

それだけに自分の世界を次々と好きなだけ紙に書けるということは、嬉しかったにちがいありません。

道長の娘に出仕できたという事実が、想像以上に重いということが、よくわかります。

ぜひ、『源氏物語』にチャレンジしてみてください。

現代語訳もたくさん出ています。

壮大な世界が広がることは間違いありません。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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