【おくの細道・象潟】松島に似た風光の地に芭蕉は寂しさと悲しみを見た

象潟

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は松尾芭蕉の『おくの細道』を読みましょう。

高校の教科書ではめったに扱わないところです。

きさかたと読みます。

地味な表現が続きますが、描写は見事ですね。

山形県を出た芭蕉と曾良はいよいよ今の秋田県へ入りました。

元禄2年(1689)6月のことでした。

現在の暦でいうと8月です。

あなたは象潟という地名を御存知ですか。

山形県酒田市から北上すると、やがてこの地へ着きます。

約40キロ離れています。

ちょうど1日の行程と考えればいいでしょう。

途中で大雨に降られました。

翌日、2人は蚶満寺(かんまんじ)を参拝します。

当時は今と違って海がもっと陸地の方まできていました。

それだけ海が近かったのです。

そのため、ちょうど松島と同じような風景であったといわれています。

あちこちに小さな島が浮かんでいたのでしょう。

今はただの小高い山があちこちにあるだけです。

その当時とは全く風景が違います。

ぼくも何度かこの地を訪れました。

やはり蚶満寺の古びた山門を入ると、不思議と静かな気持ちになります。

山寺のようにたくさんの観光客がくるというところではありません。

今では忘れられてしまったところなのです。

それだけ月日がたったということなのでしょう。

芭蕉は「松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし」と書いています。

象潟の静かな風景の中に俳人がみたものとはなんだったのか。

あなたもぜひ、1度訪ねてみてください。

夏は今でもたくさんの人が海水浴客が訪れます。

『おくの細道」の原文を載せます。

じっくりと読んでみてください。

原文

江山水陸の風光数を尽くして、今象潟に方寸を責む。

酒田の港より東北の方、山を越え、磯を伝ひ、いさごを踏みて、その際十里、日影やや傾くころ、潮風真砂を吹き上げ、雨朦朧として鳥海の山隠る。

闇中に模索して「雨もまた奇なり」とせば、雨後の晴色またたのもしきと、蜑(あま)の苫屋に膝を入れて、雨の晴るるを待つ。

その朝、天よく霽(は)れて、朝日はなやかにさし出づるほどに、象潟に舟を浮かぶ。

まづ能因島に舟を寄せて、三年幽居の跡を訪ひ、向かうの岸に舟を上がれば、「花の上漕ぐ」とよまれし桜の老い木、西行法師の記念を残す。

江上に御陵(みささぎ)あり、神功后宮の御墓といふ。

寺を干満珠寺(かんまんじゅじ)といふ。

この所に行幸ありしこといまだ聞かず。

いかなることにや。

この寺の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の中に尽きて、南に鳥海、天をささへ、その影映りて江にあり。

西はむやむやの関、道を限り、東に堤を築きて、秋田に通ふ道遙かに、海北にかまへて、波うち入るる所を汐越といふ。

江の縦横一里ばかり、俤(おもかげ)松島に通ひて、また異なり。

松島は笑ふがごとく、象潟は憾(うら)むがごとし。

寂しさに悲しみを加へて、地勢魂を悩ますに似たり。

象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花

現代語訳

これまで山水海陸の美景のある限りをことごとく見てきました。

今や象潟に対して詩心を苦しめ悩ます次第となったのです。

酒田の港から東北の方へ、山を越え、磯を伝い、砂浜を踏んで、その間十里です。

日もようやく傾きかけるころ、着いて見ると、汐風が砂を吹き上げ、雨は朦朧とうちけぶって、鳥海の山も隠れてしまっています。

古詩に詠まれた通り、暗やみの中を手さぐりするようにして透かし見る雨中の夜景も「雨もまた奇なり」の詩句の通り、すばらしいものでした。

さらに雨の晴れたあとの「晴れて偏へに好し」という景色は どんなにめざましかろうと期待をかけて、わずかに膝を入れるばかりの小さな漁師のあばら屋に宿って、雨のあがるのを待ちました。

その翌朝、天気はからりと晴れあがって、朝日がはなやかにさし出るころ、象潟に舟を浮かべたのです。

まっ先に 能因島に舟を漕ぎ寄せて、能因法師が三年間隠栖したという遺跡を尋ね、向こう側の岸に舟をつけました。

すると、「花の上漕ぐ海士の釣舟」とおよみになった桜の老木が、今もそのままに西行法師の記念を残しています。

水辺に御陵がありました。

神功后宮の御墓だといいます。

また、そこの寺を干満珠寺と呼んでいます。

しかしここに皇后が行幸されたということは、いまだに聞いたことがありません。

どういう由来によるのでしょうか。

この寺の住職の座敷に坐ってすだれを巻き上げてながめると、象潟の風景はことごとく一望のうちに見ることができます。

南には鳥海山が天を支えるかのごとくに高くそびえ立ち、その影が映って水上に横たわっています。

西はむやむやの関が道をさえぎってその先は見えません。

東には堤を築いて秋田に通う道がはるかに続いており、海を北にひかえて外海の波が潟にうち入る所を汐越と呼んでいます。

入江の縦横各一里ばかり、そのおもざしは松島に似通っていて、しかしまた違ったところがありました。

いわば松島は笑っているような明るさがあり、象潟は憂いに沈んでいるかのような感じなのです。

さらにいえば、 寂しさの上に悲しみの感を加えています。

浜辺に咲いている白く可憐な「ねぶの花」が雨で濡れている様子は、まるで中国の悲劇の美女西施のようでした。

彼女が目蓋を閉じ涙を流しているようにも見えたのです。

俳文のリズム

松尾芭蕉は江戸にもどってからすぐに『奥の細道』を発表したワケではありません。

その間に発酵するための時間を長くとっています。

出発したのは元禄2(1689)年です。

千住の芭蕉庵を3月に出発し、美濃国大垣で旅を終えました。

実に5か月におよぶ長旅だったのです。

しかしこの俳諧紀行文が完成したのは、元禄7(1694)年のことです。

その間、かなりの月日が流れています。

芭蕉はその間に、自ら詠んだ俳句を何度もなおしています。

推敲が続いたのですね。

それだけではありません。

随行者曾良の日記を読むと、必ずしもまったく旅そのものを正確に描いたものではないこともよくわかっています。

つまりそこには彼独自の創造世界もありました。

自分の見たかった風景に近づけようとしたのです。

俳句の中に美意識を埋めこんで、完成させたかったのでしょう。

興味のある人は曾良の日記と並べて読むのもいいかもしれません。

いずれにしても、芭蕉は幾多の歌枕を訪れ、過去に生きた歌人たちと魂の交感をしました。

その軌跡がこの俳諧紀行文だと言えるのです。

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ちなみに現在では『おくの細道』と書くのが一般的になっています。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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