【貧窮問答歌・山上憶良】万葉の歌人は農民の貧しい暮らしに声を荒げた

貧窮問答歌

みなさん、こんちには。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は『万葉集』をとりあげます。

遠いこの時代に、現在もロマンを感じる人は多いことでしょうね。

おおどかな時間が流れていたことも確かです。

しかしその一方で、つらく苦しい生活をしていた農民たちも、たくさんいたのです。

特に防人(さきもり)の歌などを読んでいると、残された家族の気持ちが強く伝わってきます。

主に、北九州地方の防衛にあたった兵士のことを防人と呼びました。

東国をはじめ、諸国からも徴発され派遣されました。

任期は3年間です。

『万葉集』には、出発までの慌ただしい別れと、妻に対する惜別の心情を詠ったものが多く残っています。

今回取りあげるのは、万葉歌人の中でも、異色な山上憶良(やまのうえのおくら)です。

彼は奈良時代初期の下級貴族出身の役人であり、万葉集に80首の歌が収められています。

憶良は、42歳で遣唐使書記に抜擢され、貴族になりましたが出世に恵まれませんでした。

716年に57歳で初めての国司として、伯耆守に任命され、その後、726年ごろに67歳で筑前守として赴任しました。

この歌が成立したのは筑前守として在任していた天平3年(731年)から、国司の任期を終えて筑前国から帰京した天平5年(733年)頃にかけてとされています。

歌の形式は長歌と呼ばれるものです。

5・7/5・7/5・7と3回以上くり返し,最後を5・7・7で終わる形を基本形としています。

終わりに短歌形式の反歌を1首または数首つけ、その長歌の要約や補足するのが標準でした。

内容は、彼が国内を巡視した時の見聞から成り立っています。

里長(郷長)からの過酷な税の取り立ての様子や、人々の貧しい暮らしぶりなどを実に生々しく描写しています。

問答形式で詠んだもので、当時の庶民の暮らしが十分に推測できます。

古代の人々の暮らしを、ここまで生々しく描いた作品は他にありません。

憶良は他の万葉歌人とは、明らかに一線を画しています。

特に親子や夫婦の間の愛情を描いた歌が多いです。

庶民の暮らしというのは、いつの時代も、ここに描かれた通りなのかもしれません。

できたら大きな声を出して、読んでみてください。

迫力が伝わってきます。

本文

風雑(まじ)へ 雨降る夜(よ)の 雨雑(まじ)へ 雪降る夜(よ)は 

術(すべ)もなく 寒くしあれば 堅塩(かたしほ)を 取(と)りつづしろひ 

糟湯酒(かすゆざけ)うち啜(すす)ろひて 咳(しはぶ)かひ 鼻びしびしに 

しかとあらぬ 鬚(ひげ)かき撫でて 我(あれ)を除(お)きて 

人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾(あさぶすま)引き被(かがふ)り 

布肩衣(ぬのかたぎぬ)有りのことごと 服襲(きそ)へども 寒き夜すら 

我(われ)よりも 貧しき人の 父母は 飢(う)ゑ寒(こご)ゆらむ 

妻子(めこ)どもは 吟(によ)び泣くらむ 此の時は 如何(いか)にしつつか 汝(な)が世は渡る

天地は 広しといへど 吾(あ)が為(ため)は 狭(さ)くやなりぬる 

日月(ひつき)は 明(あか)しといへど 吾(あ)が為(ため)は 照りや給はぬ 

人皆か 吾(あれ)のみや然る わくらばに 人とはあるを 

人並(ひとなみ)に 吾(あれ)を作(つく)るを 綿も無き 布肩衣(ぬのかたぎぬ)の 

海松(みる)の如(こど)わわけさがれる 襤褸(かかふ)のみ 肩にうち懸け 

伏廬(ふせいほ)の 曲廬(まげいほ)の内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて 

父母は 枕(まくら)の方(かた)に 妻子(めこ)どもは足(あと)の方(かた)に 

囲(かく)み居(ゐ)て 憂へ吟(さまよ)ひ 竈(かまど)には 火気(ほけ)ふき立てず 

甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣懸(か)きて 飯炊(いひかし)く 事も忘れて 

鵺鳥(ぬえどり)の 呻吟(のどよ)ひ居(を)るに いとのきて 短き物を 端截(はしき)ると 云へるが如く 

楚取(しもとと)る 里長(さとをさ)が声は 寝屋戸(ねやと)まで 来(き)立ち呼(よ)ばひぬ 

斯くばかり 術(すべ)無きものか 世間(よのなか)の道
 
反歌

世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

現代語訳

(貧者の問い)

風が交じり、雨が降る夜の雨交じりの雪が降る夜は、どうしようもなく寒いものです。

塩をなめながら糟湯酒(かすゆざけ)をすすり、咳をしながら鼻をすすってしまいます。

少しだけ生えている髭をなでて,自分より優れた者はいないだろうとうぬぼれているものの、寒くて仕方ないので、麻の布団をひっかぶり、麻衣を重ね着しても寒い夜なのです。

私よりも貧しい人の父母は腹をすかせてこごえ、妻子は泣いているだろうに。

こういう時はあなたはどのように暮らしているのですか。

(窮者の答え)

天地は広いというけれど、私には狭いです。

太陽や月は明るいというけれど、私のためには照らしてはくれません。

他の人もみなそうなのでしょうか。

それとも私だけなのでしょうか。

人として生まれ、人並みに働いているのに、綿も入っていない海藻のようにぼろぼろになった衣を肩にかけています。

つぶれかかった家、曲がった家の中には、地面に藁を敷き、父母は枕の方に、妻子は足の方に、私を囲むようにして嘆き悲しんでいます。

かまどには火の気がなく、米を炊く器にはクモの巣がはってしまい、飯を炊くことも忘れてしまったようです。

鵺のようにかぼそい声を出していると、短いものの端を切るとでも言うように、鞭を持った里長の声が寝床にまで聞こえてきます。

こんなにもどうしようもないものなのでしょうか、世の中というものは。

反歌

この世の中はつらく、身もやせるように耐えられないと思うけれど、鳥ではないから、飛んで行ってしまうこともできないのが、今の私なのです。

人への愛情が濃い歌人

この歌は山上憶良の代表作の1つと言われています。

読んだ感想はどのようなものでしょうか。

彼が実際に見た時の気持ちが、そのまま言葉になっていることに驚かされます。

これだけストレートに、貧窮の問題を取り上げた歌はないのではないでしょうか。

憶良の自画像と目される人物と、極貧の農民が問答をする形式を取っているのもユニークです。

律令体制下における農民たちの暮らしが、どれほど苦しいものだったのかということがよくわかります。

おそらく遣唐使の時代に、彼は中国の思想をかなり学んだものと思われます。

儒教などを学んだ中で、どのようにしても人間世界から苦が消滅しない現実の厳しさを感じたのではないでしょうか。

班田制のなかで、土地に縛り付けられた農民の声が、痛いほど響いたに違いありません。

もともと、人間への愛情が人一倍濃い歌人でした。

代表作に、子ども想う歌がありますね。

銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子に及(し)かめやも

どんな金銀財宝よりも、子どもに勝る宝がこの世にあるだろうか、というのがこの歌の意味です。

憶良にとって、眼前の事実は想像以上に重かったことでしょう。

中国の詩文の影響を、かなり強くうけて作られたものと思われます。

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何度も読んで、内容をよく吟味してください。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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