【戦争と平和】人間はなぜ性懲りもなく戦争を続けるのか【エントロピー】

戦争と平和

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

ロシアとウクライナ。

イスラエルとハマス。

毎日、ニュースに触れるのがつらいです。

天井のない牢獄と呼ばれるガザ地区の人々の様子を映像で見ていると、神はいないと思わずにはいられません。

それぞれに主張したいことはいくらでもあるのでしょう。

しかし無辜の民に銃を向けてはいけないという事実くらいは、押さえておかなければいけません。

人類の歴史は戦争の歴史といっても間違いではないですね。

戦火の止んだ時はあるのかな。

それだけのことを考えるだけで、頭が痛くなります。

生まれた時から戦火の中を逃げ回っている子供たちに、どんな罪があるのか。

互いに自分たちの正当性を主張しているだけでは、永遠に戦争が止むことはありません。

国連も、大国の拒否権の前には無力です。

かつて米ソの冷戦が終わり、少し明るさが見えてきたと思ったのもつかの間のことでした。

中国の台頭には目を見張ります。

東シナ海への進出は周囲の国の安全に、大きな危機感を与えました。

北朝鮮、韓国などとの関係も一進一退です。

台湾をめぐる中国の思惑は、日本の防衛力整備にも直結するようになりました。

まことしやかに、台湾有事の際は、どうなるのかということがシュミレーションされています。

人間はなぜ戦い続けるのか。

戦争をやめられない理由はどこにあるのでしょうか。

参考になる書物を見つけました。

『戦争と平和 ある観察』がそれです。

戦争の持つ意味

著者は精神科医としてだけではなく文筆家としても有名な、中井久夫氏です。

今から17年前、2006年に『樹をみつめて』という本を上梓しました。

この中に出てくる「戦争と平和についての観察」という内容に追加して、昨年『戦争と平和 ある観察』を人文書院から出版したのです。

戦争というものの持っている本質を、ここまで冷静に書ききった本は、それほど多くはありません。

人間がなぜ戦争をするのかという悲しいまでに冷酷なメカニズムが、ありのままに纏めてあります。

一言でいうなら、戦争はエントロピーの増大を許す作業だということです。

この「エントロピー」という表現を必ず覚えておいてください。

「混沌」のことです。

もともとは熱力学における表現でした。

つまり破壊を認め、混沌に導く作業が戦争だというのです。

あのガザ地区の映像をみれば、どうやって戦後の復興が始まるのか、全く想像できませんね。

あれだけの瓦礫の山をもう一度、人間の住める居住空間に戻すには、どれほどのエネルギーが必要なのか。

誰がそれをするのか。

福島の原発事故の後の復興を考えれば、容易に想像が可能でしょう。

途方もない労力と時間と資金が必要なのです。

戦争は男性の中の散らかす「子ども性」が水を得た魚のようになるとよく言われます。

破壊が許される惨劇の場なのです。

と同時に、子どもの顔が突然あらわれる不思議な時空でもあります。

本文を少し参照してみましょう。

本文

戦争は有効期間の「過程」である。

始まりがあり、終わりがある。

多くの問題は単純化して勝敗にいかに寄与するかという1点に収斂していく。

戦争は語りやすく、新聞の紙面一つでも作りやすい。

戦争の語りは叙事詩的になりうる。

指導者の名が頻繁に登場し、一般にその発言が強調され、性格と力量が美化される。

それは宣伝だけではなく、戦争が始まってしまったからには指導者が優秀であってもらわねば、民衆はたまらない。

民衆の指導者美化を求める眼差しを指導者は浴びて、カリスマ性を帯びる。

軍服などの制服は、場の雰囲気とあいまって、平凡な老人にも一見の崇高さを与える。

民衆には自己と指導層との同一視が急速に行われる。

単純明快な集団的統一感が優勢となり、選択肢のない社会を作る。

軍服は、青年には青年にはまた格別のいさぎよさ、引き締まった感じ、済んだ眼差しを与える。

戦争を繰り返すうちに、人類は戦闘者の服装、挙動、行為などの美学を洗練されてきたのであろう。

それは成人だけでなく、特に男子青少年を誘惑することに力を注いできた。

かつて中国との戦争が近づくと、幼年向きの雑誌、漫画、物語が真っ先に軍国化した。

一方、戦争における指導者の責任は単純化される。

失敗が目に見えるものであっても、思いのほか責任を問われず、むしろ合理化される。

その一方で、指導層が要求する苦痛、欠乏、不平等その他は戦時下の民衆が受容し、忍耐するべきものとしての倫理性を帯びてくる。

それは災害時の行動倫理に似ていて、たしかに心に訴えるものがある。

前線の兵士はもちろん、極端には戦死者を引き合いに出して、震災の時にも見られた「生存者罪悪感」という正常心理に訴え、戦争遂行の不首尾は自らの努力が足りないゆえだと、各人に責任を感じさせるようにする。

人々は、したがって、表面的には道徳的となり、社会は平和時に比べて改善されたかに見えることすらある。

かつての平和時の生活が、自己中心、主観、空虚、目的喪失、私利私欲むき出し、犯罪と不道徳の横行する時代として低く見られるようにさえなる。

実際には、多くの問題は都合よく棚上げされ、戦後に先送りされるか隠蔽されて、本来は明るい幻想の色を帯びる。

兵士という膨大な雇用が生まれても失業問題が解消し、兵器という高価な大量消費物資のために、無制限の需要が生まれて、経済界が活性する。

次の戦争は

次の戦争はいつ始まるのでしょうか。

それは戦争を知っているものが、この世を去った時です。

戦争の過酷さを経験していない人が、当然のように指導層を占めるようになります。

彼らは歴史に学びません。

どのようにして戦争を始め、どのように終結させるのか。

そのための苦悩がどのようなものかも、知らないのです。

当然、民衆も同じです。

さまざまな矛盾がたまると、エントロピーをさらに肥大させ、カオスの状態に導きたいという暗い衝動が沸き起こります。

その瞬間の高揚感は、筆者が書いた通りです。

軍服もその役割を果たします。

戦争指導者と民衆は同じ方向を向き、それ以外の選択は許されなくなります。

無秩序がどこまでも広がり、政府は当然のように軍事費を徹底的な増大させます。

インフレが起こり、金銭の価値は下落します。

政府は膨大な借金をその瞬間にゼロにすることも可能になるのです。

国の借金は全て棒引きになります。

そういう形の戦争を日本人も経験してきました。

評論家、加藤周一はかつて言いました。

人間は歴史に学ばない、と。

ローマ人たちがパンとサーカスを、つねに国家に要求し続けたことはよく知られています。

戦争がサーカスと同じレベルにならないようにするためには、何が必要なのでしょうか。

それを真剣に考えてみなくてはなりません。

どれだけの財が火中に投じられたのか。

文化人類学を少し学んだ人は知っていると思います。

まさに「ポトラッチ」と同じです。

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自分の大切なものを次々と燃やし、破壊していくことの中に、人は歓喜さえ見いだす悲しい生き物だということです。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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