桜が創った日本
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回はいつもと少し味わいの違うエッセイを読みます。
出典は岩波新書『桜が創った「日本」ソメイヨシノ起源への旅』です。
2005年に初版が刊行されて以来、この新書は重版を繰り返してきました。
日本人がなぜこんなにも桜を愛するのかについて、詳しく分析した本です。
著者は社会学者、佐藤俊樹氏です。
ソメイヨシノという品種名を、日本人ならば誰でもが知っています。
必ず1度はこの名前を聞いたことがあるはずです。
桜にはもともとたくさんの種類があります。
ところが現在、日本の桜の8割はソメイヨシノなのです。
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この品種を育てるのは大変に厄介です。
ほとんどが接木や挿木でしか繁殖しません。
大変、手間のかかる樹木の一種といえます。
ソメイヨシノが多数植えられるまで、桜というのはもともと1本だけの花を鑑賞するものでした。
その代表が八重桜です。
ところが第2次世界大戦の後、急激にソメイヨシノが植えられるようになったのです。
一斉に咲き誇りすぐに散ってしまう桜を、なぜ日本人はこれほどに愛するようになったのか。
その理由を社会学的に探ってみようとしたのが、この本の主旨です。
社会学者の視点で桜を見たとき、どのようなことが明らかになるのか。
ちょっと興味がありますね。
ところで、日本を代表する桜とはどんな品種だったのでしょうか。
一種だけとあげろと言われたら、山桜でしょう。
平安時代に詠まれた和歌に出てくる桜は、ほぼ全てが山桜だと言われています。
戦時中は「大和魂」と「山桜」が符合するかのように、多く使われた経緯もあります。
本文
ソメイヨシノは枯れやすく、種子もできにくい。
にもかかわらず、日本の桜の8割を占めている。
その意味で、ソメイヨシノの風景はきわめて人工的なものだ。
だから不自然だと人間は思う。
だがこれは全く逆の方向から見ることができる。
ソメイヨシノが日本の桜の8割を占めているという事実こそ、この桜が現状で十分成功している証拠ではなかろうか。
ソメイヨシノはたしかに枯れやすく、種子もできにくいが、そもそもソメイヨシノには、枯れにくかったり、種子をたくさんつくったりする必要があるのだろうか。(中略)
ソメイヨシノの不自然さをいいたてる人はしばしば「自然との融和」とか「調和」という自然観を唱える。
けれども、それは本当は、人間を中心にしてしか自然を見ていない。
強烈な人間中心主義者になってしまっている。(中略)
もっと深読みすれば、こうも考えられる。
私たちはソメイヨシノに深い不気味さや気持ち悪さを感じる。
美しいにもかかわらず、どこかひどく心をざわつかされる。
それはどこかでこの自然/人工の反転に気づいているからではなかろうか。(中略)
人間はふだん素朴に自分が世界の中心にいると考えている。
その人間サマがソメイヨシノによって動かされてしまう。
それがこの桜の美しさによるものだとすれば、この桜の美しさは人間にとって、どこか不自然な経験に感じられる。
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本来あるべき位置に自分がいられない、そういう種類の気持ち悪さを経験させられるのである。
美しいにもかかわらず不気味、なのではなく、美しいからこそ不気味なのだ。
あるいはソメイヨシノの美しさが「死」に結びついてきた1つの理由はここにあるのかもしれない。
「死」は人間にとって絶対的な受動性の体験である。
死ねば何もできなくなる。
その死をただ人間は受け入れるしかない。
その受動性は美しさによる感動に通じる。
深い美しさによって、人間はいやおうなく動かされてしまう。(中略)
桜の美しさを語るときに、いつも引かれる言葉がある。
「桜の樹の下には死体が埋まっている。」
梶井基次郎が冒頭に書いた一文である。
反転の発想
私たちは普段、自分の住む社会やその状況、常識や立場などに基づいたものの見方をしています。
つまりいつでも人間の側から外の世界を見ているのです。
全てが人間中心といっていいでしょう。
それをこの文章は完全に逆転させています。
人間の側から桜を見るのではなく、桜の側から人間の社会を見たとき、何が見えるのかという論点が実にユニークですね。
既存の関係を相対化する方法の1つとして、思考の方法があります。
真理は必ずあるという立場もあるのです。
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ものごとには不変の本質があるとする考え方が「本質主義」です。
しかし本当にそうなのかどうか。
世界の常識だと考えていたことが、少し方向性をかえてみることで、全く別のものに見えるということもあります。
そうした視点の逆転を時にしてみることで、世界の形がかわってくるということも十分考えられるのです。
人工と自然の境界
ソメイヨシノが人間を動かしているという発想は、かなり新鮮です。
反対に、人間が桜を美しいと考えてきたという発想は、ごくオーソドックスなものです。
人間はソメイヨシノに幻惑されて、どうにも動きがとれなくなりました。
幻惑されてしまったのです。
その結果、あえて面倒な世話をして、接ぎ木や挿し木を繰り返してきたのです。
そしていつの間にか、日本中を同じ樹木で並べました。
もともとこの品種は、どこにあったものかご存知ですか。
この樹木は、江戸末期から明治にかけて、駒込の植木屋が売り出したものなのです。
奈良吉野山の山桜と区別するため、地名である駒込の染井を冠して「ソメイヨシノ」と呼ばれるようになりました。
樹齢はわずか60年しかもたないといわれているのです。
そこにわざわざ人間は死の匂いを嗅ぎ、梶井基次郎に代表される作家たちは「死人埋葬」の伝説をつくりあげました。
桜が人間を動かし、思うように自分のテリトリーを広げていったともとれるのです。
どちらが勝者ということではなく、全てが自然に流れるように進んだということです。
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人間が全ての事象の中心にいると勝手に考えていた人たちは、もしかすると、その事実に驚いてしまうかもしれません。
これだけ手のかかる植物が自らの力で、人間たちに不気味さを感じさせ、心をざわつかせてきたという事実は、重いものです。
その結果、人々は吸い込まれるようにして、ソメイヨシノを植え続けました。
その結果が現在の姿なのです。
春、日本中の学校の校庭に咲き誇るソメイヨシノは、今後どのように変化していくのでしょうか。
これらの木々が枯れても腐っても、人は再び、接ぎ木をして再生させようとするのかどうか。
人工と本当の意味の自然との境界は現在も曖昧なままです。
ユニークな評論には、やはりそれだけ視点の豊かさがあるいい例だと思います。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。