競べ弓
みなさん、こんにちは。
元都立高校国語科教師、すい喬です。
今回は『大鏡』を取り上げます。
競べ弓の段です。
藤原道長の強運をここまで強調した段落は他にはありません。
高校の国語教科書に所収されています。
有名な場面なので、なんとなく覚えている人もいることでしょう。
登場人物についての説明を少しだけしておきます。
藤原家については、名前をきちんと把握していないと、内容を正確に捉えることが難しくなります。
しっかりと確認しておいてください。
時は平安時代中頃です。
西暦でいうと、ちょうど1000年前後の話です。
当時、政治の実権は貴族がにぎっていました。
そのなかでもひときわ大きな権力を持ったのが、藤原道長です。
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道長は摂関政治をうまく利用しながら、自分の周囲に権力を集中していきました。
「競べ弓」の段に出てくる登場人物をチェックしておきましょう。
帥殿(そちどの)とは藤原伊周(これちか)のことです。
藤原道隆の子です。
藤原道長の甥にあたります。
この殿とは藤原道長をさします。
『大鏡』の中心人物です。
後に摂政関白となり、権力を一手に握ることとなりました。
道長の周辺
道長は藤原兼家の第五子です。
道長は藤原道隆の弟にあたり藤原伊周の叔父です。
54歳で出家し、以後は「入道殿」と呼ばれました。
中の関白殿とは藤原道隆のことです。
藤原道隆の一家を「中関白家(なかのかんぱくけ)」と呼ぶところから名付けられました。
道隆は藤原伊周の父です。
藤原兼家の長男で、藤原道長の兄にあたります。
「道隆」「道兼」「道長」の三兄弟の名前は、必ず覚えておきましょう。
系図をちょっと思い浮かべると、理解がはやいかもしれません。
藤原道隆は関白という高い地位を手に入れ、さらに娘の定子を一条天皇に嫁がせ、一族は栄華を極めました。
しかし、道隆は43歳で急逝してしまったのです。
一説には大酒が元の糖尿病が原因だといわれています。
生前の道隆は、息子の伊周を次の関白にしたかったのですが、天皇に認められないまま亡くなってしまいました。
そこで道隆の後には道兼(道隆の弟で道長の兄)が関白になります。
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ここで一族にも平和と安定が訪れるはずでした。
しかし、わずか数日で道隆を追うように亡くなってしまいます。
天然痘にかかったという話です。
この時代では、長男が代々後を継いでいくので、兼家の後継者は長男である道隆になるはずでした。
その次は道隆の長男の伊周に受け継がれていく予定だったのです。
兼家の五男の道長よりも、道長の甥の伊周のほうが官位が高かったのです。
しかし、道長は権力の座をねらっていて、道隆とはライバル関係にあります。
それだけに、道隆の家へ道長が遊びに来るということは常識では考えられないことでした。
道隆の家に、緊張が走ります。
とはいえ、道長は道隆の弟にあたります。
きちんと対応をしなければいけないと考えたのでしょう。
そこからこの段落は始まります。
当日の座興に競い弓をしました。
あくまでも遊びのつもりでした。
しかしそれだけでは話がすまなくなっていったのです。
しかし権力の行く末を占うエピソードとしては、大変に面白いです。
道長という人物の性格を知るうえでも、興味深い内容になっています。
原文
帥殿の、南の院にて、人々集めて弓あそばししに、この殿渡らせ給へれば、思ひかけずあやしと、中の関白殿おぼし驚きて、いみじう饗応し申させ給うて、下臈におはしませど、前に立て奉りて、まづ射させ奉らせ給ひけるに、帥殿の矢数いま二つ劣り給ひぬ。
中の関白殿、また、御前に候ふ人々も、「いまふたたび延べさせ給へ。」と申して、延べさせ給ひけるを、やすからずおぼしなりて、「さらば、延べさせ給へ。」と仰せられて、また射させ給ふとて、仰せらるるやう、「道長が家より、帝・后立ち給ふべきものならば、この矢当たれ。」と仰せらるるに、同じものを、中心には当たるものかは。
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次に、帥殿射給ふに、いみじう臆し給ひて、御手もわななくけにや、的のあたりにだに近く寄らず、無辺世界を射給へるに、関白殿、色青くなりぬ。
また入道殿射給ふとて、「摂政・関白すべきものならば、この矢当たれ。」と仰せらるるに、初めの同じやうに、的の破るばかり、同じところに射させ給ひつ。
饗応し、もてはやし聞こえさせ給ひつる興もさめて、こと苦うなりぬ。
父大臣、帥殿に、「何か射る。な射そ、な射そ。」と制し給ひて、ことさめにけり。
現代語訳
帥殿(伊周)が、南の院で人々を集めて弓の競射をなさったときに、この殿(道長)がいらっしゃいました。
これは思いがけない不思議なことだと、中の関白殿(道隆)は驚きなさって、たいそう道長の機嫌をとり、もてなし申し上げなさったのです。
道長は伊周よりも身分が低くいらっしゃったけれど、道長を先に立て申し上げて、最初に射させ申し上げなさいました。
すると帥殿(伊周)の当たった矢の数があと二本道長に負けなさってしまいました。
中の関白殿(道隆)も、また御前にお仕えする人々も、「もう二回勝負を延長なさいませ。」と申し上げて、延長なさろうとしました。
それを道長は不満にお思いになって、「それならば、延長なさいませ。」とおっしゃって、再び矢を射なさるということになったのです。
そこで、おっしゃったことに、「この私の家から、天皇や皇后がお立ちになるはずならば、この矢よ、当たれ。」とおっしゃると、同じ当たるにしても、なんと中心に当たったではないですか。
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次に、帥殿(伊周)が射なさると、たいそう気おくれなさって、御手も震えたからでありましょうか。
的のあたりの近くにさえ行かず、見当違いのところを射なさったので、関白殿(道隆)は、顔色が真っ青になってしまいました。
また入道殿(道長)が射なさるということで、「私が摂政や関白になるはずならば、この矢よ、当たれ。」とおっしゃると、はじめのときと同じように、的が壊れるほど、同じところに射なさりました。
機嫌をとり、もてなし申し上げなさった興も冷めて、その場が気まずくなってしまったのです。
父の大臣(道隆)は、帥殿(伊周)に、「どうして射るのか、いや射ることはない。射るな、射るな。」とおとめなさって、その場の雰囲気がすっかりしらけてしまったということです。
権力への道
この話のキーパーソンは陰にいる一条天皇です。
藤原道隆は権力を手にするため、娘の定子を一条天皇に嫁がせました。
しかし道長も娘の彰子を一条天皇に嫁がせます。
もう1人のキーパーソンは一条天皇の母である詮子です。
母を同じくする道長の5歳年上の姉、藤原詮子は、17歳で円融天皇のもとに嫁ぎます。
天皇のもとには、すでに中宮がいました。
しかし若くして亡くなってしまったのです。
詮子に運が開けたのは、息子の親王が即位して一条天皇になってからです。
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円融天皇には懐仁親王以外に子がいなかったので、詮子の産んだ子が即位したのです。
詮子は天皇の生母となりました。
そのため、一条天皇が即位してからは、一気に政治力を持つことになります。
そこで道隆、道兼が病死したのち、後継者を道長にするよう一条天皇に強く働きかけました。
姉、詮子のバックアップがなければ道長は権力を掌握することはできなかったに違いありません。
2人の競べ弓の結果に全てが表現されています。
本来なら、道長は場の雰囲気を読んで、もう2回勝負をしかけようとしたところで、自ら的を外すこともできたのです。
しかしそれをあえてしませんでした。
藤原道長の時代の予兆に満ちた、迫力のある段です。
今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。