【続古事談・清盛・福原遷都】人の心を見抜くワザは一朝一夕にならず

福原遷都

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は『続古事談』という名の説話集を題材にしてみましょう。

成立は1219年と言われています。

源顕兼が編纂した『古事談』を模して作られたようですが、作者は未詳です。

約180の古事伝説が載っています。

やや政治的な記述が多いのもその特徴です。

高校ではほとんどやりません。

選択科目でとりあげられる程度でしょう。

しかし入試にはよく登場します。

ここでは平清盛が1180年、福原(神戸市)に遷都した頃のことを読みます。

なぜ400年も続いた平安京を清盛は移そうとしたのか。

理由はさまざまにあります。

以仁王と源頼政の挙兵で大きく情勢が変化したからです。

延暦寺、興福寺の勢力も平氏を取り巻いていました。

京都を攻め落とされたら、安徳天皇をはじめとした上皇、法皇らを奪われる可能性もあります。

そこで平氏政権の地盤、福原に天皇達を移して政権基盤の強化を図ろうとしたのです。

しかし強引に進めた計画には無理がありました。

平氏政権の後ろ盾となっていた高倉上皇までもが遷都に難色を示したのです、

その結果、わずか半年後にはまた京都に戻り、清盛は翌年亡くなってしまいました。

遷都の失敗をじっと見続け、清盛の心の揺れを見て取ったのが梅小路中納言藤原長方です。

本文

六波羅の太政入道、福原の京建てて、みな渡りゐて後、ことのほかにほど経て、古京と新

京といづれかまされると言ひ、定めをせんとて、古京に残りゐたるさもある人ども、みな

呼び下しけるに、人みな入道の心を恐れて、思ふばかりも言ひ開かざりけり。

長方卿ひとり少しも所を置かず、この京をそしりて、言葉も惜しまずさんざんに言ひけり。

さて、もとの京のよきやうを言ひて、つひにその日のこと、かの人の定めによりて、古京へ還るべき儀になりにけり。

後にその座にありける上達部の、長方卿に会ひて、「さてもあさましかりしことかな。さ

ばかりの悪人の、いみじと思ひて建てたる京を、さほどにはいかに言はれしぞ。言ひおも

むけて帰京の儀あればこそあれ、言ふかひなく腹立ちなば、いかがし給はまし。」と言ひ

ければ、「このこと、わが思ひには似ざる儀なり。入道の心にかなはんとてこそ、さは言

ひしか。そのゆゑは、広く漢家・本朝を考ふるに、よからぬ新儀行ひたる者、初めに思ひ

立つ折は、なかなか人に言ひ合はすることなし。その仕業少し悔しむ心あるとき、人には

問ふなり。これも、かの京、ことのほかにゐつきて後、両京の定めを行ひしかば、はやこ

のこと悔しうなりにけりといふことを知りにき。されば、なじかは言葉を惜しむべき。」

とぞ言はれける。

まことにも後に人に越えられんとしけるときも、この入道よきやうに申して、「長方卿は

ことのほかにもの覚えたる人なり。たやすく人に超超せしむべからず。」とて、後までも

方人をせられけるなり。

梅小路中納言の両京の定めとて、その時の人の口にありけり。

現代語訳

平清盛公が福原京を建てて、皆が移り住んでだいぶ時がたった頃のことです。

公が前の都と今の都とどちらが優れているだろうかと京の都に名残りを持っていそうな公卿を呼び出して聞きました。

公卿たちは清盛を恐れて本心を言わなかったのですが、藤原長方はただ一人、福原京を散々にののしって、京の都の長所を述べ立てました。

その時以来、清盛公は平安京に還都する決心をしたのでございます。

geralt / Pixabay

同席していた公卿が後に長方を責めました。

なんと浅慮なことでしょうか。

清盛公のような悪人が良いと思って建てた福原の都をどうしてまた罵ったりしたのですか。

還都に決まったからいいようなものの、公が怒り狂ったらどうなったことか。

意外なことをおっしゃるものです。

わたしは清盛入道の意思を汲み取ったのです。

なぜなら、昔から新しいことを行う者は、思い立った当初は他人に相談しないで、その行いを少し後悔したときに相談するものです。

福原京に住んだ後、どちらが良いかと言い出されたので、清盛公が後悔していたことを知ったのです。

なんで言葉を惜しむべきでしょうか。

後に、長方が地位を下位の者に抜かされそうになったとき、清盛は、「長方はすばらしい人物である。簡単に下位の者を長方の上位に置くのは良くない」と、ずっと長方の味方をしたそうです。

これ以降、梅小路中納言の両京の定めと、当時の人々はこの時のことを呼んだという話です。

人間関係の基本

この話は人間臭い要素をたくさん持っています。

自分の上司が不安そうな表情をしている時、その真意を見抜くのはそう簡単ではありません。

ついいい気になって自分の意見を言ってしまったために左遷されてしまうこともあるのです。

誰でも面と向かって反対され、嬉しい人はいません。

できれば部下はイエスマンでいた方が楽です。

しかしそれは非常に危険な道でもあります。

単純にイエスを連発していたのでは、人の心を揺さぶることはできません。

なぜ清盛が藤原長方を重用しようとしたのか。

それはまさに彼の心の揺れを見抜いてくれたからでしょう。

多くの寺社勢力と源氏を相手に回して、清盛は孤独であったろうと思います。

仕方がないから京都へ戻ろうと考えたにせよ、それを自分からは言い出せません。

誰かがその尻拭いをしてくれないか。

家来たちの発言を待っていたに違いありません。

その時に飛び出てきたのが藤原長方だったのです。

ものごとをよくわきまえ、行動力もある人物だと清盛は判断したのです。

誰もが怖がって面と向かってはNoを言えなかったに違いありません。

長方はその八方ふさがりのところに風穴を開けたのです。

よく言えば逃げ道を作ったということでしょうか。

自分の味方が悪くいうくらいなのだから、やめてもおかしくないという理由がそこにできます。

撤退に向けて花道をつくってくれたということでしょうね。

軽々しく余人に官位を超えさせてはならないと清盛は呟きます。

使える人間だという評価を与えたのです。

人の心理を読み抜くというのはそんなに簡単なことではありません。

よくサラリーマン社会でもいわれますね。

イエスマンだけに囲まれている人は、いざとなると弱いと。

まったくあの言葉と同じです。

気持ちよく撤退させてくれる人を得ることは大切です。

本気でNoをいってくれる人も周囲にいてくれなければなりません。

長方はお世辞などを使って目上の人に取り入ろうとするタイプではなかったようです。

どちらかといえば剛直な人柄です。

平清盛の政策にしばしば反対したといわれています。

後白河法皇の幽閉にも反対しているのです。

その一方で和歌にも秀でた人でした。

『千載和歌集』をはじめとして勅撰和歌集に41首も入集しています。

いい部下がいてこそのトップなのです。

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世の中は人材が全てだと感じます。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。

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