【ネット時代】紙の本を読む行為と身体性を持つこととの相関関係は

学び

ネット時代の読書

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は読書をするという行為について考えてみます。

活字離れが言われて久しくなりました。

言葉に対する感性が以前よりかなり落ちているという指摘もあります。

実際、生徒に文章を書かせてみると、主語と述語の関係が曖昧であったり、誤った使い方をした助詞などが目につきます。

読書量が圧倒的に不足しているのかもしれません。

現代は映像中心の時代です。

通勤途中の電車内の様子を眺めてみると、大多数の人がスマホを見ています。

文字情報を読んでいる人がいないワケではありません。

皆がみな動画に夢中というのでもないようです。

小説などを電子ファイルで読んでいる人ももちろんいます。

しかし細切れの情報や、SNSを拾い読みしている人が大多数です。

以前ならば、文庫本を手にしている人の姿をかなり目にしました。

それが今では圧倒的に少数です。

この変化は劇的だというしかありません。

本を読むという行為の仕方が、全く変わったという事実は重いですね。

たとえば電子ファイルを開くという動作を考えてみればよくわかります。

「開く」という表現とは違って、実際はマウスや指を動かしているだけです。

マウスを握ったままで「開く」というのは、随分矛盾しているとしかいえません。

読み書きする身体は、大きく変化したと言わざるを言えないのです

参考になる資料として評論家、港千尋氏の『読み書きする身体』の一部分を抜きます。

これを読んで「現代の読書」の意味についてあなたの考えたことを書きなさい、といった小論文の問題が出題されるとしたらどうしますか。

活字文化の未来像をテーマにした設問です。

課題文

これまで私たちが親しんできた、モノとしての本の属性が失われようとしている。

電子化された本にパルプはいらない。

しかし、電気がなければ存在しないも同じである。

インターネット上で公開されている文書も光ディスクのようなパッケージ化されたものにも、本が持っていた「厚み」がない。

果たして「厚み」や指先で触る紙の「感触」といった本の属性と、書かれている内容とは全く無関係だろうか。

一般的には、形態がどうあれ、問題は中身だということになるかもしれない。

印刷されていようが、液晶画面で見ようが、内容は、器から独立していると考える人が多いだろう。

しかし本の物質性と読書との間には、もっと深遠な関係があるかもしれない。

物質と情報の間にあるもの、具体的には読書における身体性と知識の習得との関係である。

物質としての形を持たない本に慣れてしまう前に、やっておかなければならいことは、まだまだあるような気がする。

読む人の身体を眺めてみよう。

voltamax / Pixabay

表紙を開け、ページをめくり、読み終えたら閉じる。

印刷された本と電子の本との差異は、まず触覚にある。

「開陳」するという表現や「扉」という言葉に示されるように、開いたり閉じたりする動作には、建築的な含みがあるし、「啓く」あるいは「啓示」という言葉には、書かれた言葉の宗教的な起源を見ることができる。(中略)

文字とは有限の記号によって、無限を創出する英知である。

アルファベットなら、たった数十個の文字で、文字通り限りないことを言い表すことができる。

一冊の本に収められている言葉の数は有限だが、その読みは無限のバリエーションとなりうる。

書物は物質でありながら、読んでも読んでも、決して減ることがない。

そこに収められている世界には、限りない豊かさが秘められているのである。

身体性

ここでの主題は、読書と身体性のあり方です。

この内容はあくまでも「ネット時代の読書」に対する提起として、使うことができると考えられます。

しかしその先の問題点に関しては自分で考えなくてはなりません。

何を論じていけばいいのか。

紙の本とスマホやPCで読む時の触覚の違いは、想像以上に大きいものがあります

さらにいえば、ネット上にはいたる所に言葉があるということです。

毎日、どれほどのデータがネット上にアップされているのか。

その中にはよく推敲されていないものもたくさんあります。

いずれにしても、これほど言葉にあふれた時代は人類史上かつてありませんでした。

紙の媒体に頼っていた時代は、誰もがそれなりにコスト意識を持っていました。

採算がなによりも重視されたのです。

しかし今ではそのタガが完全に外れてしまっています。

ネット上で発表するために、それほどの資本はいりません。

あらゆるところで表現を発することが可能になったのです。

それも厳しくチェックされたわけではない「事実」を表出できます。

わからないことはネットで調べればいいとはいうものの、その内容は校閲されていない内容のものです。

多くの人は、その事実の怖さをそれほど認識していません。

試みに大学生の読書時間を調べてみれば、よくわかります。

過半数がゼロに近いのです。

知らなくても困らなくなった時代と言えば、言えるのかもしれません。

いざとなれば、ネットを開けばいい時代です。

しかしその知識は断片的なものにすぎないのです。。

集中して読書をするという習慣を持てない人が、いまほど増えている時代はないのかもしれません。

紙製の本をめくりながら、自分の中に落とし込んでいく作業の大切さを知らずに、学業を終えていく人が圧倒的なのです。

読み方の変化

ところでスマホやPCで読書をする場合、どのようなメリットやデメリットがあるのでしょうか。

今までにかなりの検証がされています。

メリット

➀暗い場所でも読める
②購入したらすぐに読める
③大量のデータを持ち運べる
④検索が便利である
⑤画面サイズにあわせてフォントの大きさをかえられる

デメリット

➀目が疲れやすい
②買えない本がある
③充電する必要がある
④中古で売買できない

まさに技術の裏表そのものです。

便利なところがあるとすれば、その反対側には不便な面がたくさんあるのです。

電子書籍の数は日々増えてきてはいますが、すべての本をカバーしているわけではありません。

特に貴重な古書の類いはまったく手に入らないのです。

それ以上に、電子データで文章を読もうという人がどの程度いるのかという根本的な問題にも突き当たります。

論文を書くときにこうした問題を1つ1つ考えながら、どこに着目して文章を運ぶかを大いに検証してください。

どこからでも切り口はあります。

身体性について深く切り込むことも可能です。

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さまざまな視点から論じてみてください。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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