【日本画の特質・大岡信】決定的な違いは対象の捉え方にあり【二項対立】

学び

日本画の特質

みなさん、こんにちは。

元都立高校国語科教師、すい喬です。

今回は日本画の特徴について考えてみます。

なぜ西洋の絵画とはあらゆる点で、造形が違っているのでしょうか。

不思議に感じたことはありませんか。

もちろん、対象となる風景や人物が違うのは当然です。

画材や絵の具の質などが違うからという考え方もあります。

しかしそれ以上にモチーフや対象の捉え方が全く違うのです。

展覧会に行った後で、なぜここまで異なるのかと理由を考えたことはありませんか。

文化や芸術を西洋と東洋といった視点から比較する二項対立は、文化論の定番です。

リアリズムなどの特徴を持つ近代ヨーロッパ絵画とはまったく対照的な、日本絵画の特質とはいったい何なのでしょうか。

自分の眼に見えたものを、そのまま描いてきた西洋の絵画と、日本画の違いを考えてみます。

たとえば「花の吉野」という日本画の画題について見てみましょう。

多くの日本画に繰り広げられているのは、眼の前に広がる吉野の風景ではありません。

画家の中で美化された1つのイメージなのです。

日本画にとって、リアリズムは問題になりません。

季節ならば季節そのものを捉えることが問題の本質です。

紋切型の画題であればあるほど、むしろ好都合でした。

そこに自然の息吹をどう通わせるのかということが、画家の腕の見せ所だったのです。

西洋画との差異について、課題文を通して考えてみましょう。

筆者は大岡信氏です。

美術作品に造詣の深い詩人です。

課題文を最初に読んでみます。

課題文

日本の、あるいは、ここでは広く東洋の、と言うべきかもしれぬ絵画は、ヨーロッパ絵画のような発展経過をたどっては来なかった。

いわば、自分の眼が見たものではなく、自分の精神が識っているものに対してこそ、最も忠実であろうとするのが、東洋絵画の一般的特質であって、画家は、仮にある画題を眼前に見ていても、それを純粋に空間的に再現する義務を感じはしない。

彼は事物を物質的延長というものさしでとらえることはせず、むしろ精神的持続というものさしでとらえる。

言い換えれば、感情的、主体的な体験として、事物を彼自身の内側に見いだすのであって、その結果、絵は常に、ある主体的な理念の象徴という性質を帯びるのである。(中略)

日本画の画題が、きわめてしばしば、名所旧跡や、ものの常套的な取り合わせ(松に藤、旭に山桜等々)あるいは季節の様々な景物によって占められている理由も、おそらくここにあろう。

それは、和歌俳句における題詠や本歌取りに似たことを、画家たちがやっていることを意味していると言っていいかもしれない。

日本画という絵画伝統の中で仕事をしようとする限り、画家はこの条件から完全に自由になることはできないし、また自由になることがどれほど有益であり得るかも、疑わしい。

日本画が、その主題の面から現在の好尚に接近しようとするなら、おそらく、幻想絵画かある種の表現主義的絵画、または極度に様式化された装飾絵画といった方向に進むほかないだろうと思われる。

これらは、網膜上のイメージに忠実であることを必須の条件とするリアリズム絵画ではない、という点で共通しているのだ。(中略)

季節というものが、日本の伝統的な文芸・美術において、あれほどにも重要な位置を占めてきた理由は、季節こそ、自然がそれ自身を時間的位相において示す姿にほかならないことを、日本人がとりわけ鋭く感得してきたからであろう。

季節は自然の外にあるものではない。

時間的位相において自然が自己を十全に開示した状態が、すなわち季節である。

自然は季節において、時時刻刻に変貌しつつ、常に欠けるところなく充満したその全容をさらしている。

そして人間は、一個の自然的存在として、この季節の内にある。

季節を観ずることは、人間自身を観ずることでなければならない。

美意識の違い

文章を読み、日本と西洋の美術作品の違いを、あなた自身の経験をふまえて800字で書きなさい。

これが設問です。

文化の違いを美術作品に特化して、さらに自分の体験談を交えて書きなさいという問題です。

やや茫漠としたテーマなので、どこからまとめるかは考えなくてはなりません。

筆者は何を論じようとしているのでしょうか。

最初にテーマの基本的なアウトラインを掴まえます。

読解に全力を傾けてください。

キーワードを探し出すのです。

筆者の考えによれば、日本画家は事物をそのまま再現してはいないという説明があります。

そのかわりに何を描いているか。

自分の心が感じ取った理念を表現することが美意識の根幹だと主張しています。

「理念」という表現は随分抽象的ですね。

理解できますか。

つまり画題に見出した自分の考えを、最も理想化された形で造形的に提出し表現しているのが日本の絵画だと主張しているのです。

極端なことをいえば、眼の前に見えていなくても、描くことができると述べています。

一方、西洋の絵画はどうでしょう。

日本の絵画と同じことが言えるのか。

ピカソやゴッホ、ゴーギャンなどはどのように絵を描いたと考えますか。

彼らも当然のように、自らの主張を画題を駆使して描いています。

しかしその原型を見ずにキャンバスに向かったのでしょうか。

そんなことはけっしてありません。

今も多くのデッサンが残されているのです。

それなしにデフォルメが行われたワケではありません。

自然と人間

筆者が何度も述べていることは何でしょうか。

古典的詩歌においては、季節が重要であることは言うまでもありません。

それは感情に訴えるものです。

知性とか激情とは無縁のものなのです。

大岡信の著書『紀貫之』の中に次のような考えが示されています。

それは紀貫之の歌にある華麗、余情、幽玄と呼ばれるものが、リアリズムとは濃密な関係にはなかったということです。

そこにあるのは言葉の余情です。

本歌取りの考え方です。

季節ならば季節の感覚を捉えることが主眼でした。

日本人が春という季節に持っている感覚を、一種の共同幻想として包み込む言葉なのです。

誰もが春に感ずる心のふるえ、ダイナミズムといったものを言葉にしたのです。

そこにはリアリズムがあまりありません。

自然の命をその言葉の中に感じることができれば、そけでよかったのです。

そのことは絵画においても同様です。

春の吉野という日本人が原型として持っている感覚。

それを画布の上に閉じ込めることが、画家の役割でした。

日本人の美意識は、西洋人のそれとはかなり違ったもののはずです。

よく言われるように自然の中に溶け込むことで、人と自然が一体化し、そこに美の意識が醸成されていくのです。

自然を自らの意志でかえるという気分とは程遠いものがあります。

画家の感情的、主体的体験の内側でとらえられた事物の状態こそが、最も大切なのです。

自然こそが人間の力を逆照射するファクターであったといえるでしょう。

西洋のように人間がいて自然がそこにあるのではなく、むしろ、自然があって人間がそこに点在しているだけです。

当然美意識も西洋のものとは違うのは当然でしょう。

日本画の画題は確かに紋切り型のものが多いです。

しかしそこに時間的な位相を持つ「季節」が重視されているのです。

西洋画の持つ季節感とは、自ずと形が違うのは必然だといえます。

自分自身の体験をうまく重ね合わせてください。

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それがいい効果を発揮すれば、高い評価を得られるはずです。

今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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